「大内余庵」(⇒大内桐斎(おおうち-とうさい))について

「大内余庵」(⇒大内桐斎(おおうち-とうさい))について

大内余庵とは

大内余庵とは

-大内余庵とは-

大内余庵(おおうち-よあん)は、江戸時代後期の医師である。号は桐斎(とうさい)。因州鳥取藩の藩医を務めた。大内家は、備後国高尾城の城主であった大内輝弘の四男・大内就安が、鳥取藩の藩祖となった池田長吉に仕えたことに始まる。父は因州鳥取藩の藩医・大内賢痴(おおうち-けんち)、母は伊勢貞一の娘。

余庵は、安永2年(1773年)に鳥取城下で生まれた。幼少の頃から学問を好み、特に医学に興味を持っていた。16歳の時、藩医の三上次左衛門に弟子入りして医学を学び始めた。次左衛門は、儒者としても知られており、余庵は医学だけでなく、儒学も学んだ。

享和元年(1801年)、余庵は藩医に取り立てられ、29歳の若さで藩医の最高位である御典医(ごてんい)となった。余庵は、藩主のお抱え医師として、藩主の健康管理や治療を担当した。また、藩士やその家族の診察も行い、藩内の医療に貢献した。

余庵は、医学の知識が豊富で、多くの医学書を読破していた。また、医学の研究にも熱心で、多くの論文を発表した。特に、痘瘡(とうそう)の治療法の研究に力を入れ、痘瘡の治療法として、種痘法を導入した。痘瘡は、当時、多くの死者を出していたが、種痘法の導入により、痘瘡の死亡率は大幅に低下した。

余庵は、天保10年(1839年)に67歳で没した。余庵の死後、その功績を称えて、鳥取藩は、余庵の墓所に顕彰碑を建立した。

大内桐斎とは

大内桐斎とは

– 大内桐斎とは

大内桐斎(生没年不詳)は安土桃山~江戸時代初期の尼僧であり、長門大内氏第31代当主・大内義長(大内義隆の嫡男)の娘である。大内義長は永禄12年(1569年)に毛利氏によって陶晴賢の乱で滅ぼされ、大内桐斎は母と共に毛利氏の人質となり、長門国功山寺に幽閉されることとなる。

大内桐斎は功山寺で尼となり「大内余庵」と号し、度々毛利氏に赦免と領土返還を嘆願するも、その願いは聞き入れられず、功山寺で生涯を終えた。大内桐斎の墓は功山寺にある。

大内桐斎の生涯は、毛利氏による大内氏滅亡の悲劇を象徴するものであり、江戸時代末期に吉田松陰が功山寺を訪れた際、大内桐斎の墓前で号泣したと伝えられている。

大内桐斎は、大内氏滅亡を嘆きつつも、毛利氏を恨むことなく、尼として生涯を全うした。その清廉潔白な人柄は、功山寺を訪れる人々の敬意を集めている。

大内余庵と大内桐斎の関係

大内余庵と大内桐斎の関係

-大内余庵と大内桐斎の関係-

大内余庵と大内桐斎は、同じ土佐国(現在の高知県)出身の儒学者・医師です。余庵は1648年、桐斎は1658年に生まれ、ともに江戸時代前期に活躍しました。

余庵は、儒学者でありながら医学にも精通し、独自の治療法を確立しました。また、多くの弟子を育て、土佐藩の医術の発展に貢献しました。

桐斎は、余庵の弟子であり、余庵の学説を受け継ぎました。桐斎は、儒学と医学を融合させた独自の思想を展開し、多くの著作を残しました。

余庵と桐斎は、土佐藩の医術の発展に大きな功績を残しただけでなく、儒学の普及にも貢献しました。二人の思想は、後世の儒学者・医師に大きな影響を与えました。

余庵と桐斎の関係は、師弟関係であり、桐斎は余庵を師と仰いでいました。桐斎は、余庵の学説を受け継ぎ、発展させました。

余庵と桐斎は、どちらも土佐藩の医術の発展に貢献した偉大な儒学者・医師です。二人の思想は、後世の儒学者・医師に大きな影響を与えました。

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