俳人・秋元不死男

俳人・秋元不死男

生い立ちと俳句への情熱

生い立ちと俳句への情熱

-生い立ちと俳句への情熱-

秋元不死男は、1892年9月28日に東京府豊多摩郡内藤新宿(現在の東京都新宿区)で生まれました。父は秋元治郎兵衛、母は秋元かの。不死男は、幼少の頃から俳句に親しみ、11歳のころには、俳句雑誌「ホトトギス」に投句し、掲載されました。その後、早稲田大学国文科に進学し、在学中には「ホトトギス」の同人に推されました。

大学卒業後は、俳句雑誌「層雲」を創刊し、主宰を務めました。また、「ホトトギス」でも活躍し、1923年には、正岡子規賞を受賞しました。不死男の俳句は、自然を詠んだものが多く、写生を重んじました。また、社会問題にも関心を持ち、労働者や農民の生活を詠んだ俳句も多くあります。

不死男は、1958年に「青玄」を創刊し、主宰を務めました。また、俳人協会会長や日本芸術院会員などの要職を歴任しました。1971年には、文化勲章を受章しました。不死男は、1978年11月27日に、86歳で亡くなりました。

不死男は、近代俳句を代表する俳人の一人です。不死男の俳句は、写生を重んじ、自然の美しさを詠んだものが多くあります。また、社会問題にも関心を持ち、労働者や農民の生活を詠んだ俳句も多くあります。不死男の俳句は、多くの人々に愛され、親しまれています。

新興俳句弾圧事件と投獄

新興俳句弾圧事件と投獄

-新興俳句弾圧事件と投獄-

1943年(昭和18年)に起こった新興俳句弾圧事件は、戦時下の言論統制の一環として、当時権力を握っていた政府による新興俳句運動に対する弾圧事件である。この事件において、俳人・秋元不死男は逮捕され、投獄されることとなった。

新興俳句運動とは、1930年代後半に秋元不死男らを中心に起こった俳句の新しい潮流である。それまでの伝統的な俳句の形式にとらわれず、自由な発想と表現を重んじるのが特徴であった。

しかし、戦争が激化するにつれて、新興俳句運動は政府の弾圧の対象となる。軍部は新興俳句を「反戦」「非国民」「危険思想」とみなし、その取り締まりを強化した。

1943年1月、秋元不死男は憲兵隊に逮捕される。そして、治安維持法違反の容疑で起訴され、懲役1年の判決を受けることとなった。秋元不死男は、東京拘置所に収容され、1年間の服役生活を送ることとなった。

獄中において、秋元不死男は俳句を作り続けた。そして、釈放後は、新興俳句運動の旗手として、俳句の自由と民主主義のために戦い続けた。

秋元不死男の投獄は、新興俳句運動にとどまらず、日本の言論・表現の自由の歴史においても重要な出来事であった。そして、秋元不死男の不屈の精神は、今日でも多くの俳人や文学者に影響を与え続けている。

獄中句集『瘤』と『氷海』の創刊

獄中句集『瘤』と『氷海』の創刊

獄中句集『瘤』と『氷海』の創刊

秋元不死男は、1892年(明治25年)に東京市浅草区(現・東京都台東区)で、父・秋元左次馬と母・ふさの間に生まれた。俳句は、早稲田大学在学中に高浜虚子主宰の『ホトトギス』に投句を始め、正岡子規の弟子である河東碧梧桐に師事した。

1916年(大正5年)、不死男は社会主義運動に参加し、治安警察法違反で投獄された。獄中では、句集『瘤』をまとめ、1917年(大正6年)に刊行した。『瘤』は、社会主義運動家の境遇や獄中生活を詠んだ句集であり、当時の社会情勢を反映した作品として注目を集めた。

また、不死男は獄中から『氷海』という同人誌を創刊した。『氷海』は、社会主義運動や無産階級の生活をテーマにした句誌であり、後にプロレタリア俳句運動の中心的な役割を果たした。不死男は『氷海』の編集長として、社会主義運動と俳句を結びつけた新しい俳句運動を推進した。

不死男は、1917年(大正6年)に釈放された後も、社会主義運動や俳句活動に積極的に参加した。1927年(昭和2年)には、日本プロレタリア作家同盟(ナップ)に入会し、プロレタリア俳句運動を指導した。また、1929年(昭和4年)には、俳誌『プロレタリア俳句』を創刊し、プロレタリア俳句の理論と実践を確立した。

不死男は、1942年(昭和17年)に死去した。享年50歳。不死男の死後、プロレタリア俳句運動は衰退したが、その作品は、現代詩や現代俳句に大きな影響を与え続けた。

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