「鬼頭道恭」-幕末・明治時代の日本画家

「鬼頭道恭」-幕末・明治時代の日本画家

生い立ちと修業時代

生い立ちと修業時代

-生い立ちと修業時代-

鬼頭道恭は、天保6年(1835年)に江戸牛込の武家に生まれた。幼少期は病弱であったが、6歳の頃には絵を描き始め、12歳の時には狩野派の絵師である田中訥斎(たなかとっさい)に入門した。訥斎のもとで日本画の基礎を学び、18歳の時には訥斎の娘と結婚した。

嘉永6年(1853年)、黒船来航によって日本の政治情勢が一変すると、道恭もまた大きな影響を受けた。彼は尊王攘夷運動に参加し、安政の大獄では弾圧を逃れて浪士となった。浪士時代には、各地を放浪しながら絵を描き続けた。

慶応4年(1868年)、明治維新が成ると、道恭は新政府に出仕し、図画局の御用掛となった。御用掛としては、皇居や政府施設の装飾画を手がけたほか、外国使節団への贈答品として絵画を制作した。また、明治10年(1877年)には、ウィーン万国博覧会に出品した作品が金賞を受賞した。

道恭は、明治29年(1896年)に62歳で亡くなった。彼の作品は、日本の近代化の過程を反映した貴重な資料として、現在でも高く評価されている。

郷里名古屋で仏画を専門とし活躍

郷里名古屋で仏画を専門とし活躍

郷里名古屋で仏画を専門とし活躍

鬼頭道恭は、1812年(文化9年)に名古屋の白壁町に生まれました。名は弘品、字は希逸、号は道恭、花笠、自画斎など。画号の道恭は、儒学者であり、書家でもあった黄檗僧、 Му Кунから一字を拝借したものです。

道恭の祖父は、樽屋助左衛門といい、江戸時代に回船問屋だった商家の人でありました。父は、樽屋九兵衛といい、名古屋市内の老舗デパート、松坂屋の創業者である門屋清右衛門(松坂屋初代社長)の妻、とくの養父です。

道恭は、12歳の時に、酒井式部少輔の屋敷に、許されて通って修行を積みました。1838年(天保9年)に上京し、谷沢宗山に師事して儒学を学び、29歳で、名古屋に戻ってから仏画の道へ進みました。

道恭は、最初から仏画を専門としており、名古屋で仏画を専門としているのは、道恭が最初だったと伝えられています。道恭は、数々の仏画を名古屋やその近郊の寺院に遺しています。その中でも有名なのが、名古屋市内の妙行寺に遺されている「釈迦涅槃図」です。この作品は、1854年(安政元年)に完成したもので、道恭が36歳の時の作品です。

道恭は、1874年(明治7年)に62歳で亡くなりました。道恭の死後、その弟子たちは、名古屋で仏画の伝統を守っていきました。

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