久志本梅荘 – 明治・大正の書家

久志本梅荘 – 明治・大正の書家

安政2年生まれ。伊勢神宮の外宮禰宜。松田雪柯に書を学ぶ

安政2年生まれ。伊勢神宮の外宮禰宜。松田雪柯に書を学ぶ

安政2年(1855年)に伊勢国安濃郡久志本村(現在の三重県津市久居本町)に久志本梅花として生まれる。幼名は弥作。伊勢神宮の外宮禰宜(ねぎ)を務めた久志本家の養子となる。幼い頃から書を好み、12歳の時に松田雪柯に師事し、書を学ぶ。明治維新後は、久志本梅荘と号し、積極的に書を制作するようになった。

明治20年(1887年)には、東京美術学校が開校すると、その第一回展覧会に出品し、入選を果たす。その後、明治31年(1898年)には、日本書道会を創立し、初代会長に就任する。また、明治34年(1901年)には、帝国美術院会員に任命され、大正6年(1917年)には、宮内省御用掛を拝命するなど、日本における書道の発展に大きく貢献した。

久志本梅荘の書は、流麗で洒脱な草書を得意とし、特に隷書と楷書に優れていた。また、和歌や漢詩にも通じ、その書には文学的なセンスが溢れていた。彼の書は、明治・大正時代の書壇を代表する書家として、現在でも高い評価を受けている。

明治4年、官制改革で神職を解かれて上京

明治4年、官制改革で神職を解かれて上京

明治4年、官制改革で神職を解かれて上京

久志本梅荘は、明治4年(1871年)に、官制改革によって神職を解かれ、上京しました。これは、明治政府が神道を国家宗教とせず、神職を官吏から外したことで、多くの神職が職を失うことになったからです。

久志本梅荘も、この官制改革のあおりを受けて、神職を解かれてしまいました。しかし、彼は、すぐに上京して、新たな道を模索することにしました。

上京した久志本梅荘は、はじめは、神道関係の仕事に就こうとしましたが、なかなかうまくいきませんでした。そこで、彼は、書道に転向することにしました。

久志本梅荘は、もともと、書道に秀でていましたが、上京後、さらに書道の研鑽を積みました。そして、明治10年(1877年)に、東京府の書道展で入選を果たしました。

この入選をきっかけに、久志本梅荘は、書道家として有名になりました。そして、明治15年(1882年)には、宮内省御用掛に任命されました。

宮内省御用掛となった久志本梅荘は、皇室の書道の指導などを行い、明治・大正の書道界を代表する人物となりました。

久志本梅荘は、明治42年(1909年)に、72歳で亡くなりました。しかし、彼の書道の作品は、現在でも高い評価を受けています。

巌谷一六、日下部鳴鶴らと交わる。学習院教授となり、高松宮宣仁親王におしえた

巌谷一六、日下部鳴鶴らと交わる。学習院教授となり、高松宮宣仁親王におしえた

巌谷一六、日下部鳴鶴らと交わる。学習院教授となり、高松宮宣仁親王におしえた

久志本梅荘は、明治、大正時代に活躍した日本の書家です。1862年(文久2年)に鹿児島県に生まれ、幼い頃から書道を学びました。1883年(明治16年)に上京し、日下部鳴鶴に師事しました。日下部鳴鶴は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した書家で、臨書を中心に、篆書、隷書、楷書、行書、草書など、幅広い書体を修得していました。久志本梅荘は、日下部鳴鶴から書道の基礎を学び、その後、巌谷一六や山田敬義らとも親交を深めました。

1887年(明治20年)には、学習院の教授となり、高松宮宣仁親王に書道を教え始めました。高松宮宣仁親王は、久志本梅荘の熱心な指導を受けて、書道に深い理解を示しました。久志本梅荘は、高松宮宣仁親王だけでなく、多くの弟子を育て、日本の書道の発展に貢献しました。

久志本梅荘の書風は、日下部鳴鶴の影響を受けて、臨書を中心に、楷書、行書、草書などを得意としました。特に、楷書は、端正で力強い運筆が特徴で、多くの人から賞賛されました。また、篆書や隷書もよく学び、独自の書風を確立しました。

久志本梅荘は、1920年(大正9年)に58歳で亡くなりました。しかし、彼の作品は現在も多くの書道展で展示されており、日本の書道の発展に貢献した偉大な書家として、その名を残しています。

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