国枝金三:日本の洋画家

国枝金三:日本の洋画家

芸術家人生の始まり

芸術家人生の始まり

-芸術家人生の始まり-

国枝金三は1885年1月1日、長野県上伊那郡飯島町に生まれました。父親は農家の長男であり、金三は4人兄弟の末っ子でした。金三は幼い頃から絵を描くことが好きで、小学校時代には学校の壁に絵を描いていたといいます。

15歳の時、金三は東京に出て、東京美術学校(現在の東京藝術大学)を受験しました。しかし、金三は試験に落ちてしまいました。金三は諦めずに翌年、再び東京美術学校を受験し、見事合格しました。

金三は東京美術学校で西洋画を学び、4年間在学中に数々の賞を受賞しました。卒業後は、同校の助教授に就任し、後進の指導にあたりました。

1922年、金三は渡欧し、フランス・イギリス・イタリア・ドイツなどを巡りました。ヨーロッパでの2年間の滞在は、金三の芸術に大きな影響を与えました。

帰国後は、国画院展や二科展に出品し、その作品は高い評価を受けました。1928年、金三は東京美術学校教授に就任しました。

1931年、金三は渡米し、ニューヨークで個展を開催しました。個展は成功し、金三はニューヨークで高い評価を受けました。

1933年、金三は帰国しました。帰国後は、東京美術学校教授を務めながら、制作活動を続けました。

1945年、金三は東京大空襲により、自宅兼アトリエを焼失しました。しかし、金三は焼失した作品を再び描き起こし、芸術活動に励みました。

1950年、金三は東京藝術大学教授に就任しました。1955年には、文化勲章を受章しました。

1960年、金三は東京都世田谷区の自宅で亡くなりました。享年75歳でした。

二科会への参加

二科会への参加

二科会への参加

国枝金三は、1914年に二科会に入選し、その後、二科展に何度も出品した。二科会は、1914年に創立された洋画家の団体であり、日本の洋画界に大きな影響を与えた。国枝金三は、二科会に参加することで、日本の洋画界で活躍する多くの画家たちと知り合い、交流を深めた。

二科会は、日本の洋画界を二分する団体であり、他方では文展があった。文展は、政府主催の展覧会であり、二科会よりも保守的な絵画が評価された。国枝金三は、二科会に参加することで、文展とは異なる、自由で革新的な絵画を追求することができた。

二科会への参加は、国枝金三の画業に大きな影響を与えた。二科会で活躍する画家たちと交流を深めることで、国枝金三は新しい絵画の技法や表現方法を学び、自分の絵画を向上させていった。また、二科会に参加することで、国枝金三は日本の洋画界で認められるようになり、多くの展覧会に出品する機会を得た。

二科会への参加は、国枝金三にとって、画家として成長する上で重要な経験となった。二科会で活躍する画家たちとの交流や、二科展への出品を通じて、国枝金三は自分の絵画を向上させていき、日本の洋画界で活躍する画家となった。

信濃橋洋画研究所の創設

信濃橋洋画研究所の創設

-信濃橋洋画研究所の創設-

国枝金三は、1913年(大正2年)に信濃橋洋画研究所を創設しました。この研究所は、東京・新宿区の信濃橋に位置しており、長年にわたって日本の洋画界に大きな影響を与えた重要な機関です。

研究所の設立の背景には、国枝金三の強い信念がありました。彼は、日本の洋画界をより発展させるためには、若い芸術家たちに正しい指導と教育を行うことが不可欠であると考えていました。

研究所では、国枝金三自身による指導に加えて、様々な著名な芸術家が講師として招かれました。その中には、藤島武二や岡田三郎助、有島生馬、安井曽太郎、石井柏亭、村山槐多など、錚々たるメンバーが名を連ねていました。

研究所では、デッサンや色彩、構図などの基本的な技法から、油絵や水彩画、パステル画などの様々な画法まで、幅広い内容の教育が行われました。また、研究所では展覧会も定期的に開催され、若い芸術家たちの作品を発表する場としても機能しました。

信濃橋洋画研究所からは、多くの優れた芸術家が輩出されました。その中には、中村彝、横山大観、梅原龍三郎、林倭衛、川端龍子など、近代日本洋画史に名を残す人物たちが含まれています。

信濃橋洋画研究所は、1953年(昭和28年)に閉鎖されましたが、その短い歴史の中で日本の洋画界に与えた影響は計り知れません。

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