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磯野富士子 – モンゴル研究のパイオニア

- 生涯 磯野富士子は、1912年(明治45年)9月28日に、茨城県久慈郡関本町(現在の常陸大宮市)に生まれた。幼い頃から、日本の歴史や文化に興味を持ち、やがて東洋史に強い興味を抱くようになる。 1934年(昭和9年)、東京女子大学国文学科に入学。在学中、モンゴル学の権威である白鳥庫吉に師事し、モンゴル語とモンゴル史を学ぶ。1938年(昭和13年)に卒業後、松岡洋右外務大臣の下で秘書官を務め、1944年(昭和19年)に蒙古聯合自治政府の総裁に就任した小林躋造の通訳を務める。 戦後、磯野富士子は、東京外国語大学でモンゴル語を教え、1951年(昭和26年)にモンゴル人民共和国に派遣される。派遣中は、モンゴル国立大学の研究生としてモンゴル史とモンゴル語を学び、モンゴル語の教材を執筆する。 1953年(昭和28年)に帰国後、東京外国語大学の専任講師に就任。1962年(昭和37年)には、東京外国語大学の教授に昇進する。翌年の1963年(昭和38年)には、モンゴル国より「スフバートル章」を受章する。 1967年(昭和42年)には、東京外国語大学の学長に就任。在任中は、モンゴル学の研究を推進し、モンゴルと日本の学術交流に貢献した。1972年(昭和47年)に学長を退任後も、モンゴル学の研究を続け、1982年(昭和57年)に東京外国語大学の定年を退職する。 1997年(平成9年)12月15日に死去。享年85歳。
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– 平岡盛三郎:物理学者

-幕府留学生としてロンドンへ- 平岡盛三郎は、1869年(明治2年)に幕府留学生としてロンドンに派遣されました。当初は物理学者になるつもりはなく、工学を学ぶ予定でした。しかし、ロンドンに到着して間もなく、物理学の講義を聞いて興味を持ち、物理学者になることを決意しました。 平岡は、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで物理学を学びました。同大学には、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)、ジョン・ティンダルなど、当時の物理学の第一人者が集まっていました。平岡は、これらの学者たちから物理学の最先端の知識を学び、急速に成長していきました。 1872年(明治5年)にロンドン大学を卒業した平岡は、日本に戻りました。そして、東京大学教授に就任し、物理学の教育と研究に尽力しました。平岡は、日本の物理学の発展に大きな貢献をしただけでなく、日本の近代化にも貢献しました。 平岡は、1884年(明治17年)に東京大学総長に就任しました。総長在任中は、大学の改革に尽力し、日本の近代化に貢献しました。平岡は、1901年(明治34年)に総長を辞任しましたが、その後も物理学の研究を続け、1922年(大正11年)に76歳で亡くなりました。 平岡は、日本の物理学の父と呼ばれています。平岡の功績は、日本の近代化に大きな貢献をしただけでなく、日本の物理学の発展にも大きな貢献をしました。
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「金子竹香」

-「金子竹香」とは- 金子竹香とは、日本の彫刻家です。1897年(明治30年)に、長野県東筑摩郡奈良井村(現・塩尻市)に生まれ、1979年(昭和54年)に逝去しました。 金子竹香は、幼い頃から彫刻に興味を持ち、15歳の時に上京して、日本美術学校(現・東京芸術大学)に入学しました。在学中は、岡田三郎助や高村光太郎に師事し、彫刻の技法を学びました。 1924年(大正13年)に、金子竹香は東京美術学校を卒業し、彫刻家としてデビューしました。その後、数々の作品を制作し、個展やグループ展に出展しました。1934年(昭和9年)には、帝展に入選し、1939年(昭和14年)には、新文展に出品しました。 金子竹香の作品は、写実的な作風で、人物や動物の姿を多く彫りました。また、仏像や観音像も多く制作しています。金子竹香の作品は、国内外の美術館や博物館に収蔵されています。 金子竹香は、1979年(昭和54年)に、82歳で逝去しました。しかし、金子竹香の作品は、現在も人々に愛され続けています。
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「三田村鳶魚」とは?

三田村鳶魚の経歴 三田村鳶魚(1884-1968)は、日本の folklorist、historian、essayist であり、日本の民俗学を確立した先駆者として知られています。彼は 1884 年 12 月 9 日に東京で生まれ、のちに三田村魚介と改名しました。また、彼は「三田村学説」を確立したことで有名です。 三田村鳶魚は、1907 年に東京帝国大学卒業後、文学部教授として働き始めました。彼は 1928 年に日本民俗学会を創設し、1946 年まで会長を務めました。また、彼は 1929 年から 1968 年まで東京帝国大学教授を務め、1936 年には日本学士院会員に選出されました。 三田村鳶魚の研究範囲は広く、民俗学、歴史学、文学、言語学、美術史学など多岐にわたりました。彼は、日本各地の民俗調査を行い、その成果を「民俗学」や「日本民俗」などの著書にまとめました。また、彼は、日本の歴史や文化に関する著書も数多く残しています。 三田村鳶魚の著作は、学術的価値が高く、今日でも多くの研究者に利用されています。彼は、日本の民俗学を確立した先駆者として、その功績を称えられています。
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矢田鶴之助-明治-昭和時代の教育者

-明治-昭和時代の教育者矢田鶴之助の生涯- -幼少期と青年期- 矢田鶴之助は、1866年(慶応2年)に現在の茨城県鉾田市に生まれました。幼い頃から聡明で、12歳の時にはすでに漢文を理解するほどでした。1881年(明治14年)に東京師範学校に入学し、1884年(明治17年)に卒業しました。卒業後は、小学校の教員として働きながら、東京帝国大学で教育学を学び、1890年(明治23年)に卒業しました。 -教育者としての活動- 大学卒業後は、東京高等師範学校などの教員養成機関で教鞭をとり、教育者の養成に尽力しました。1905年(明治38年)には、東京女子高等師範学校の校長に就任し、女子教育の振興に努めました。また、1911年(明治44年)には、文部大臣に就任し、日本の教育制度の改革に取り組みました。 -晩年- 1921年(大正10年)に文部大臣を辞任した後、東京帝国大学の教授として教鞭をとりながら、教育に関する著作活動を続けました。1945年(昭和20年)に、80歳で亡くなりました。 -矢田鶴之助の功績- 矢田鶴之助は、日本の近代教育制度の確立に貢献した偉大な教育者です。矢田鶴之助は、女子教育の振興、教育者の養成、教育制度の改革など、日本の教育の発展に大きな功績を残しました。矢田鶴之助の功績は、現在もなお、日本の教育界に大きな影響を与えています。 -矢田鶴之助の思想- 矢田鶴之助は、教育の目的は「人間を完成すること」であると考えていました。矢田鶴之助は、人間を完成するためには、知識や技能を身に付けるだけではなく、徳性を養うことが重要であると考えていました。矢田鶴之助は、徳性を養うためには、礼儀作法を正しく教えることが重要であると考えていました。 -矢田鶴之助の教育方法- 矢田鶴之助は、教育においては、生徒の自主性を尊重することが重要であると考えていました。矢田鶴之助は、生徒に知識や技能を押し付けるのではなく、生徒が自ら学び、自ら考え、自ら行動する力を育てることが重要であると考えていました。矢田鶴之助は、生徒の自主性を尊重するためには、生徒に自由な時間と空間を与えることが重要であると考えていました。
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「沼正作」

- 沼正作の経歴と研究 沼正作は、1858年3月23日に現在の岡山県真庭市に生まれました。1875年、東京帝国大学理学部に入学し、1879年に卒業しました。卒業後は、東京帝国大学理学部で助手として勤務し、1885年に教授に就任しました。1891年、ベルリン大学に留学し、1893年に帰国しました。 沼正作の研究は、主に数学と物理学の分野で行われました。数学の分野では、解析学、幾何学、代数学など幅広い分野で研究を行い、多くの論文を発表しました。物理学の分野では、電磁気学、光学、熱学など幅広い分野で研究を行い、多くの論文を発表しました。 沼正作は、日本の数学と物理学の発展に大きく貢献した人物です。1919年、帝国学士院会員に選出されました。1923年、文化勲章を受章しました。1935年、東京帝国大学を退官しました。1936年2月16日に東京市で死去しました。 沼正作は、日本の数学と物理学の発展に大きく貢献した人物です。彼の研究成果は、今日でも多くの分野で活用されています。
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地球物理学者・松野太郎の経歴と功績

松野太郎の生い立ちと学歴 松野太郎は、1940年12月25日に東京都で生まれた。父は物理学者の松野一郎、母は数学者の松野花子である。松野太郎には姉と弟がいて、それぞれ物理学者と数学者になっている。 松野太郎は幼い頃から科学に興味を持ち、小学校の頃から科学実験セットで遊んでいた。また、読書も好きで、特に科学小説を好んで読んでいた。中学に進学すると、科学部の部長を務め、科学コンテストに出場して入賞するなど、科学への才能を発揮した。 高校に進学すると、理系クラスに進み、物理と数学を専攻した。成績は常にトップクラスで、特に物理は秀でていた。高校卒業後は、東京大学理学部物理学科に進学した。 東大での松野太郎は、物理学の基礎をしっかりと身につけた。また、物理学の最先端の研究にも触れ、物理学の面白さに魅せられた。大学卒業後は、大学院に進学し、物理学の研究を続けた。 大学院での松野太郎は、地球物理学を専攻した。地球物理学とは、地球の物理的な性質や地球の内部構造を研究する学問である。松野太郎は、地球の内部構造を解明するため、地震波の研究を行った。 松野太郎は、地震波の研究において、多くの成果を上げた。特に、地震波の速度を測定することで、地球の内部構造を推定する手法を開発したことは、画期的な成果であった。この成果により、松野太郎は、地球物理学の権威として認められるようになった。 松野太郎は、大学院卒業後は、東京大学の助教授に就任した。その後、准教授、教授と昇進し、2000年には東京大学の総長に就任した。総長在任中は、大学の改革を進め、東京大学の国際化に貢献した。 松野太郎は、地球物理学の研究において、多くの成果を上げただけでなく、教育者としても活躍した。また、総長として大学の改革を進め、東京大学の国際化に貢献した。
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「海後勝雄」

- 海後勝雄の生涯 海後勝雄は、1920年1月1日に新潟県に生まれました。1941年に東京帝国大学理学部を卒業し、1943年に東京帝国大学大学院理学研究科を修了しました。その後、1944年に東京帝国大学理学部助手となり、1946年に東京教育大学助教授に就任しました。1949年に東京教育大学教授に昇進し、1952年に東京教育大学理学部長に就任しました。 1954年に東京教育大学を辞職し、1955年に東京工業大学教授に就任しました。1960年に東京工業大学理学部長に就任し、1964年に東京工業大学学長に就任しました。1968年に東京工業大学を辞職し、1969年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)事務局長に就任しました。1974年にユネスコ事務局長を辞任し、1975年に東京教育大学客員教授に就任しました。1977年に東京教育大学客員教授を辞任し、1978年に東京工業大学名誉教授に就任しました。 海後勝雄は、1990年12月25日に死去しました。享年70歳でした。 -# 海後勝雄の業績 海後勝雄は、数学者として数多くの業績を残しました。その中でも特に有名なのが、1954年に発表した「海後予想」です。海後予想は、代数多様体のコホモロジーについて述べたもので、現在でも多くの数学者が研究を行っています。 また、海後勝雄は、ユネスコ事務局長として、教育や科学の振興に尽力しました。1971年には、ユネスコ憲章に「持続可能な開発」の理念を盛り込むことに成功しました。これは、後の持続可能な開発目標(SDGs)の制定に大きな影響を与えました。 -# 海後勝雄の人物像 海後勝雄は、温厚で謙虚な人柄で知られていました。また、非常に博学であり、幅広い分野の知識を持っていました。海後勝雄は、日本の数学界に多大な貢献をした偉大な数学者です。
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鷲尾教導の足跡 → 明治・昭和を駆け抜けた僧侶の人生

明治8年、新潟県浄土真宗本願寺派安城寺に生まれた鷲尾教導は、幼い頃から仏教に親しみ、15歳の時に得度して仏門に入った。その後、京都の龍谷大学で仏教を学び、19歳の時に卒業すると、東京の築地本願寺に奉職した。 築地本願寺では、青年会の指導者として活動し、多くの若者たちに仏教の教えを説いた。また、社会問題にも積極的に取り組んでおり、貧困や差別をなくすための運動を展開した。 1914年、35歳の時に築地本願寺を辞任し、インドや中国に遊学した。そこで、仏教の根本である釈尊の教えを学び、仏教の精神をより深く理解した。帰国後は、再び築地本願寺に奉職し、1921年には本願寺の管長に就任した。 本願寺管長としては、仏教の普及と社会問題の解決に力を注いだ。特に、女性の権利向上のための運動に積極的に取り組み、女性の選挙権獲得に貢献した。また、1939年には、日中戦争の終結を願って、東京から北京まで徒歩で巡礼した。 1945年、80歳で死去した。鷲尾教導は、明治・昭和を駆け抜けた僧侶であり、仏教の普及と社会問題の解決に貢献した偉大な人物である。
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阪田誠造-生涯と作品

-大阪生まれの建築家- 阪田誠造は、1899年(明治32年)2月25日に大阪市に生まれた。父親は大阪市役所の職員であり、母親は主婦である。阪田誠造は、大阪市立西中学校を経て、大阪高等工業学校(現・大阪工業大学)建築科に入学した。1921年(大正10年)に大阪高等工業学校を卒業後、大阪市の建築事務所に就職した。 しかし、阪田誠造は建築家になることを夢見ていたため、1923年(大正12年)に東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築学科に入学した。1927年(昭和2年)に東京帝国大学を卒業後、大阪市に帰郷し、建築事務所を開設した。 阪田誠造は、大阪市内の多くの建築物の設計を担当した。代表的な作品としては、大阪市庁舎(1928年)、大阪商工会議所ビル(1935年)、大阪中央公会堂(1936年)、大阪ガスビル(1937年)などがある。これらの建築物は、いずれもモダニズム建築の傑作として評価されている。 阪田誠造は、1979年(昭和54年)12月25日に大阪市で亡くなった。享年80歳。阪田誠造は、大阪の近代建築に大きな功績を残した建築家として、現在も語り継がれている。
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神原甚造 – 法学者・初代香川大学学長

神原甚造の生涯 神原甚造は、1891年7月10日に香川県丸亀市に生まれました。1914年に東京帝国大学法学部を卒業し、司法省に入省しました。その後、東京地方裁判所判事、東京高等裁判所判事などを歴任し、1937年に香川大学初代学長に就任しました。香川大学学長を退任後は、中央社会保険医療協議会会長、日本労働協会会長などを歴任し、1971年11月12日に80歳で逝去しました。 神原甚造は、香川県の発展に尽力した人物として知られています。香川大学学長時代には、香川大学を全国有数の私立大学に育て上げ、香川県の教育水準の向上に貢献しました。また、中央社会保険医療協議会会長時代には、国民皆保険制度の確立に尽力し、国民の健康福祉の向上に貢献しました。神原甚造は、香川県の名士として、現在でも多くの人々に尊敬されています。 神原甚造は、生涯にわたって法学の研究と教育に尽力した法学者でした。東京帝国大学法学部を卒業後は、司法省に入省し、判事を歴任しました。1937年には、香川大学初代学長に就任し、香川大学を全国有数の私立大学に育て上げました。神原甚造は、法学の研究と教育に尽力した功績で、1961年に文化勲章を受章しています。 神原甚造は、香川県の名士として、現在でも多くの人々に尊敬されています。香川大学には、神原甚造の名を冠した「神原甚造記念館」があり、神原甚造の生涯と功績を紹介しています。また、香川県丸亀市には、神原甚造の生誕地である「神原甚造生誕の地」があり、神原甚造の功績を称える碑が建てられています。
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鈴木道太 – 昭和時代の教育者

-鈴木道太の生い立ちと経歴- 鈴木道太は、1882年(明治15年)1月1日に、福島県会津若松市で生まれた。父は鈴木道太郎、母は鈴木くにである。道太は、幼少期から学業優秀で、1894年(明治27年)に会津若松市立第一尋常小学校を卒業した。その後、東京高等師範学校に進学し、1900年(明治33年)に卒業した。 卒業後は、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)の教諭として着任した。道太は、熱心な教育者として知られ、生徒たちから慕われていた。1912年(大正元年)には、東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)の校長に就任した。道太は、校長として女子教育の充実を図り、女子生徒の進学率を向上させた。 1919年(大正8年)には、東京帝国大学(現・東京大学)の教授に就任した。道太は、教授として教育学を講じ、多くの教育者を育成した。1923年(大正12年)には、東京帝国大学の総長に就任した。道太は、総長として大学の改革を進め、研究の振興と教育の充実を図った。 1932年(昭和7年)には、文部大臣に就任した。道太は、文部大臣として教育改革を行い、国民皆学制の確立に尽力した。1936年(昭和11年)には、貴族院議員に勅任された。道太は、貴族院議員として教育政策の立案に携わり、教育の振興に貢献した。 1945年(昭和20年)8月15日、道太は死去した。享年63歳。道太は、昭和時代の教育界を代表する人物であり、その功績は今もなお称えられている。
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人物小辞典『浅見与七』

-経歴- 浅見与七は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した日本の剣術家である。名は正敬、号は心斉。尾張国中島郡福崎村(現在の愛知県一宮市)に生まれる。幼い頃から剣術を好み、15歳の時に江戸に出て、浅山一伝流の浅山伊織に師事する。その後、他流試合で多くの勝利を収め、名を馳せる。 1862年(文久2年)、将軍徳川家茂の上洛に従い、京都に赴く。そこで、尊攘派の志士たちと親交を深め、尊王攘夷運動に参加する。1863年(文久3年)、薩摩藩の島津久光が率いる薩摩軍が京都に進軍すると、与七もこれに加わり、禁門の変で幕府軍と戦う。 1868年(慶応4年)、戊辰戦争が勃発すると、与七は薩摩軍に加わり、東北地方を転戦する。会津戦争では、白河口の戦いで幕府軍を破るなどの功績を挙げる。戊辰戦争後、与七は明治政府に出仕し、陸軍少佐に任命される。1877年(明治10年)、西南戦争が勃発すると、与七は政府軍に加わり、西南軍と戦う。 西南戦争後、与七は陸軍を退役し、剣術の指導に専念する。1884年(明治17年)、東京に剣術道場「浅見塾」を開き、多くの弟子を育成する。1896年(明治29年)、64歳で死去する。 与七は、剣術の達人としてだけでなく、尊王攘夷運動や戊辰戦争、西南戦争にも参加した勤皇の志士としても知られている。その功績は、多くの小説や戯曲、映画などで取り上げられ、現在もなお、多くの人々に親しまれている。
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野村芳兵衛とその生活教育運動

野村芳兵衛の生涯と経歴 野村芳兵衛は、1872年(明治5年)に、現在の広島県福山市に生まれました。旧制広島第一中学校(現在の広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業後、上京して東京帝国大学(現在の東京大学)に入学しました。同大学では、教育学科を専攻し、1895年(明治28年)に卒業しました。 卒業後は、広島県に戻り、広島第一中学校の教諭となりました。しかし、1900年(明治33年)に、東京帝国大学の助教授に就任しました。同大学では、教育学を担当し、1904年(明治37年)には、教授に昇進しました。 1906年(明治39年)に、東京帝国大学を辞職し、第一高等女学校の校長に就任しました。同校では、生活教育を重視する教育方針を打ち出し、大きな成果を上げました。1912年(大正元年)に、第一高等女学校を退職し、生活教育運動に専念することとなりました。 生活教育運動とは、学校教育の目的を、単に知識や技能の伝授ではなく、生活の向上に置くという教育思想です。野村芳兵衛は、生活教育運動の普及のために、全国各地を講演して回りました。また、1913年(大正2年)には、生活教育運動の機関誌である「生活教育」を創刊しました。 野村芳兵衛の生活教育運動は、大きな反響を呼び、全国各地に生活教育を実践する学校が誕生しました。しかし、1938年(昭和13年)に、野村芳兵衛は、病のため51歳の若さで亡くなりました。 野村芳兵衛の死後も、生活教育運動は、各地で続けられました。そして、戦後、生活教育運動は、学校教育改革の中で、重要な役割を果たしました。野村芳兵衛の生活教育運動は、日本の教育史において、大きな功績を残したと言えます。
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笹川隆平(1913-1989) – 地方に生きた教育者と郷土史家

教育者としての笹川隆平 笹川隆平は、1913年、石川県珠洲郡内浦町(現・珠洲市)に生まれ、1989年に亡くなりました。彼は、地元の小学校の校長を務め、郷土の歴史や文化を研究する郷土史家としても活躍しました。 笹川は、1937年に金沢師範学校を卒業後、小学校の教員として働き始めました。その後、1949年に内浦小学校の校長に就任し、1975年に定年退職するまで、校長を務めました。 笹川は、校長として、生徒の教育に熱心に取り組みました。彼は、生徒一人ひとりの個性を尊重し、一人ひとりに合った指導を行うことを心がけました。また、彼は、生徒の自主性を育てるため、生徒会活動やクラブ活動を盛んにしました。 笹川は、校長としてだけでなく、郷土史家としても活躍しました。彼は、内浦町の古い言い伝えや民話を集め、執筆活動を行いました。また、彼は、内浦町の史跡や観光スポットを研究し、それを紹介する本を出版しました。 笹川は、教育者としてだけでなく、郷土史家としても、内浦町の発展に貢献しました。彼は、内浦町の歴史や文化を後世に伝え、内浦町をより住みやすい町にするために努力しました。 笹川は、1989年に亡くなりましたが、彼の功績は今もなお、内浦町の人々に語り継がれています。
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浜口隆一:近代建築の評論家

- 戦後の日本建築界における浜口隆一の影響 - 戦後、日本建築界は大きな変革期を迎えた。戦災で破壊された街の復興と、新しい時代の建築を求める声が強まった。そんな中で、浜口隆一は近代建築の評論家として活躍し、戦後の日本建築界に大きな影響を与えた。 浜口隆一は、1900年、長野県松本市に生まれた。東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、1924年に渡欧し、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエなどの近代建築の巨匠たちに師事した。その後、日本に帰国し、1930年に建築評論誌「新建築」を創刊した。 「新建築」は、近代建築の理論や作品を紹介し、日本の建築界に大きな影響を与えた。特に、戦後、復興と新しい時代の建築を求める声が高まる中で、「新建築」は、近代建築の理論や作品を紹介し、日本の建築界を先導する役割を果たした。 浜口隆一は、近代建築の評論家としてだけでなく、建築家としても活躍した。代表作としては、東京都立中央図書館(1955年)、法政大学図書館(1956年)、神奈川県立近代美術館(1957年)などがある。浜口隆一の建築は、近代建築の理論に基づいたものであり、その機能性や合理性が高い評価を受けている。 浜口隆一は、近代建築の評論家として、建築家として、戦後の日本建築界に大きな影響を与えた。彼の残した遺産は、現在でも日本の建築界で受け継がれている。
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宮脇昭の功績と生涯-うちょーくの思考職位者

-職位者のショージー- 職位者のショージーとは、宮脇昭が提唱した、職位にある者がその職権を濫用することを厳しく禁止する思想です。 宮脇昭は、職位にある者は、その職権を私利私欲のために使ってはならず、常に公のために使わなければならないと主張しました。また、職位にある者は、その職権を濫用して、弱い立場の人々を虐げたり、不正を働いたりしてはいけないとしました。 宮脇昭は、職位者のショージーが守られるためには、職位にある者が常に謙虚で、自分の職権を自覚していなければならないと説きました。また、職位にある者を監視する制度が整っていなければならないとも主張しました。 宮脇昭の職位者のショージーの思想は、現在でも多くの公務員や企業人たちに影響を与えています。 -職位者のショージーの具体例- 職位者のショージーの具体例として、以下のようなものがあります。 * 公務員が、自分の職権を使って、私腹を肥やすこと。 * 企業の管理職が、自分の部下に対して、パワハラやセクハラをすること。 * 教師が、自分の生徒に対して、体罰や差別をすること。 * 医師が、自分の患者に対して、不必要な治療を施すこと。 * 弁護士が、自分の依頼人に対して、不誠実な弁護をすること。 これらは、すべて職位者のショージーに違反する行為です。 -職位者のショージーを守るために- 職位者のショージーを守るためには、以下のようなことが重要です。 * 職位にある者は、常に謙虚で、自分の職権を自覚すること。 * 職位にある者を監視する制度が整っていること。 * 国民や国民が、職位者のショージーを厳しく監視すること。 職位者のショージーを守ることは、公正で民主的な社会を実現するために必要なことです。
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長谷川規一 – 江戸時代後期の和算家

-長谷川規一の生涯- 長谷川規一は、江戸時代後期の和算家です。1787年(天明7年)に伊勢国鈴鹿に生まれました。幼い頃から算術に興味を持ち、15歳の時に江戸に出て、和算家・川北寿庵の門下に入りました。 川北寿庵のもとで和算を学び、1810年(文化7年)に『算法指南』を出版しました。この本は、和算の初歩から応用までを解説したもので、当時の和算の教科書として広く使われました。 1818年(文政元年)に、長谷川規一は『算法大成』を出版しました。この本は、和算のさまざまな分野を網羅した大著で、和算の発展に大きく貢献しました。 1827年(文政10年)に、長谷川規一は53歳で亡くなりました。しかし、彼の残した功績は大きく、和算の発展に大きく貢献した和算家として知られています。 -主な業績- * 『算法指南』の出版(1810年) * 『算法大成』の出版(1818年) * 和算の普及と発展に貢献 -評価- 長谷川規一は、江戸時代後期の和算家として、その功績を讃えられています。彼の残した業績は、和算の発展に大きく貢献しており、今日でもその功績は高く評価されています。
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岸本英夫-宗教学者,日米学術交流のパイオニア

-岸本英夫の生涯と経歴- 岸本英夫は、1920年(大正9年)11月27日に東京都東京市下谷区(現・台東区)に生まれた。父岸本繁三はキリスト教の牧師で、母浜子は日本組合基督教会の宣教師の娘であった。岸本は幼少期から両親の影響を受けてキリスト教に親しみ、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)卒業後は、東京帝国大学文学部哲学科に進学した。 大学卒業後は、東京工業大学や東京都立大学などで講師として教鞭を執りながら、日本宗教史の研究を続けた。1957年(昭和32年)には、アメリカ合衆国のハーバード大学に留学し、宗教学者ジェームズ・H・ラフヘッド博士のもとで研究を行った。帰国後は、東京工業大学教授に就任し、宗教学の研究と教育に尽力した。 1969年(昭和44年)には、ハーバード大学の客員教授として再び渡米し、1年間研究を行った。帰国後は、東京大学教授に就任し、宗教学の研究と教育を続けた。1987年(昭和62年)には、東京大学を定年退職し、名誉教授となった。 岸本は、日本の宗教学研究における先駆者であり、日米学術交流のパイオニアでもあった。また、多くの著書や論文を発表し、日本の宗教文化の理解に大きく貢献した。2005年(平成17年)12月29日に逝去。享年85歳。
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「ジェニング」

-ジェニングの生涯- ジェニング(1999年3月1日 - )は、アメリカ合衆国の競走馬、繁殖牝馬。2004年にケンタッキー・ダービーとアメリカクラシック三冠の第2戦であるプリークネスステークスを制し、さらにその年のエクリプス賞年度代表馬にも選出された。 ジェニングは、ケンタッキー州の牧場で生まれ、これまでに5頭のケンタッキーダービー馬を輩出したこともあるバファロー・レース&ゲームングのロバート・マクミランによって育てられた。父はサンデーサイレンス、母はノーザンバイクリュースで、母父はボールドエイジンである。ジェニングの半姉には、2004年のブリーダーズカップ・ダートマイルの優勝馬で、アメリカクラシック三冠の唯一の牝馬優勝馬である、ゼニヤッタがいる。 ジェニングは、2001年の6月にデビューし、6馬身差で勝利した。その後、彼女はコリアーズウッドステークスで2着に敗れ、ジムダンディステークスで3着となった後、トラヴァーズステークスで4着となった。 2002年の春、ジェニングは、フロリダダービーで1番人気に支持されたが、5着に敗れた。その後、彼女はケンタッキー・ダービーで6番人気に支持され、伏兵視されていたが、見事勝利を収めた。これは、バファロー・レース&ゲームングとボブ・バファート調教師にとって、初のケンタッキーダービー制覇となった。 ケンタッキー・ダービーの後、ジェニングはプリークネスステークスに出走し、こちらも勝利を収めた。しかし、その後のベルモントステークスでは、11番人気で出走し、5着に敗れ、アメリカクラシック三冠は達成出来なかった。 秋、ジェニングは、ジョッキークラブゴールドカップで勝利し、ブリーダーズカップ・クラシックでも2着に入った。2003年、ジェニングは、ドバイワールドカップで勝利し、さらにブリーダーズカップ・クラシックで2着に入った。 2004年、ジェニングは、現役を引退し、繁殖牝馬となった。彼女は、これまで2頭の仔馬を産んでおり、そのうちの1頭である、ジェニングJr.は、2009年のケンタッキーダービーで2着に入った。 ジェニングは、2009年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。彼女は、アメリカクラシック三冠の第1戦と第2戦を制した唯一の牝馬である。また、彼女は、エクリプス賞年度代表馬にも選出された。
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→ 山際靖

-山際靖- -職歴- * 1989年東京大学法学部卒業 * 1991年財団法人日本貿易振興会(ジェトロ)入社 * 1995年商工省入省 * 2001年経済産業省通商政策局国際経済課長 * 2003年内閣府国際政策局審議官 * 2005年経済産業省通商政策局経済協力課長 * 2007年経済産業省通商政策局総務課長 * 2009年経済産業省通商政策局次長 * 2011年経済産業省通商政策局長 * 2013年経済産業省経済産業政策局長 * 2015年経済産業省事務次官 * 2017年経済産業大臣就任 * 2018年経済再生担当大臣就任 * 2019年経済産業大臣に再任 * 2020年内閣府特命担当大臣(経済安全保障担当)に就任 * 2021年経済産業大臣に再任 -受賞歴- * 2016年ブルームバーグ・ビジネスウィーク誌の「世界で最も影響力のある50人」に選出 * 2017年フォーブス誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出 * 2018年タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出 * 2019年英国王立国際問題研究所の「世界で最も影響力のある100人」に選出 * 2020年世界経済フォーラムの「世界で最も影響力のある100人」に選出
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「渡辺弗措」

-渡辺弗措の生涯- 渡辺弗措(わたなべ ふそ、1863年2月5日 - 1917年9月29日)は、日本の医師、ジャーナリスト。同志社大学の創立者の一人である。 1863年、長野県伊那郡下条村(現箕輪町)に生まれる。1884年、同志社英学校(現同志社大学)に入学。同志社英学校在学中、キリスト教に入信。 1887年、同志社英学校を卒業。その後、大阪で医師として働いた。1890年、同志社英学校の教師に就任。 1892年、『基督教世界』を創刊。1893年、同志社大学の設立に尽力。 1894年、同志社大学の初代学長に就任。1897年、同志社大学の学長を辞任。 1898年、東京に移住。1900年、『週刊朝日』の記者となる。1901年、『文藝倶楽部』の編集長となる。 1902年、大阪毎日新聞の記者となる。1904年、大阪毎日新聞の論説委員となる。 1907年、大阪毎日新聞の編集長となる。1910年、大阪毎日新聞の社長となる。 1917年、東京で逝去。享年54歳。 渡辺弗措は、日本のジャーナリズムの発展に貢献した人物である。また、同志社大学の設立に尽力した人物としても知られている。
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小野塚与澄:真言宗新義派僧侶の生涯と功績

-若き日の小野塚与澄とその修行- 小野塚与澄は、1894年(明治27年)1月1日、三重県三重郡菰野村(現在の菰野町)に、父・小野塚与三郎、母・シンの長男として生まれた。与澄は、幼い頃から仏教に親しみ、12歳の時に両親の勧めで真言宗智山派の尼寺である常楽院に入門した。常楽院では、住職の寿海尼から仏教の基礎を学び、18歳で得度(出家)し、法名「与澄」を授かった。 得度後は、京都の東寺や奈良の西大寺など、真言宗の古刹を訪ねて修行を重ねた。また、1917年(大正6年)には、真言宗智山派の総本山である智積院に入学し、僧侶としての本格的な修行を開始した。智積院では、密教の奥義を学び、1921年(大正10年)に卒業した。 智積院を卒業後、与澄は、三重県に戻り、真言宗智山派の寺院である円蔵寺に入寺した。円蔵寺では、住職として檀信徒の導きにあたる傍ら、密教の研究にも励んだ。1929年(昭和4年)には、真言宗智山派の学僧として選ばれ、中国に留学した。中国では、天台宗や華厳宗などの中国仏教を学び、1931年(昭和6年)に帰国した。 帰国後は、円蔵寺の住職を務めながら、真言宗智山派の学僧や講師として各地を巡回して講演活動を行った。また、真言宗の教義や歴史に関する著書も多数出版した。 与澄は、1974年(昭和49年)1月1日に、三重県津市で入寂した。享年80歳。
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千葉胤秀:江戸時代後期の和算家

千葉胤秀の生涯 千葉胤秀は、享保13年(1728年)江戸に生まれました。幼い頃より神童の誉れ高く、12歳の時には和算の大家である関孝和の『和算秘伝書』を独学で学び、17歳の時には『和算独習書』という和算の教科書を著しています。 胤秀は、その後江戸幕府の旗本となり、奏者番や目付などを歴任しました。また、幕府の天文方として、暦の編纂や測量、地図の作成などにも従事しました。胤秀は、和算の研究にも熱心であり、多くの著書を残しました。 その中でも、特に有名なのが、『和算新書』です。『和算新書』は、和算の初歩から応用までを体系的にまとめた教科書で、幕末まで多くの和算家が使用しました。千葉胤秀は、天明7年(1787年)に59歳で亡くなりました。 胤秀は、和算の普及・発展に貢献しただけでなく、暦の編纂、測量、地図の作成などにも従事し、江戸時代の学問・文化の発展に大きな足跡を残した人物です。