講談師 神田伯山(3代) – 明治・昭和時代前期の語り部

講談師 神田伯山(3代) – 明治・昭和時代前期の語り部

講談師・神田伯山の生涯と功績

講談師・神田伯山の生涯と功績

-講談師・神田伯山の生涯と功績-

講談師の神田伯山は、1876年(明治9年)に東京市日本橋区に生まれました。本名は、神田勝次郎。

伯山は、1895年(明治28年)に講談師の3代目神田伯龍に入門し、1898年(明治31年)に講談師として初舞台を踏みました。

伯山は、1903年(明治36年)に「講談の天才」と呼ばれ、瞬く間に人気を集めました。また、伯山は、講談の演目に新しい題材を取り入れたり、講談のスタイルに工夫を加えたりするなど、講談の近代化に貢献しました。

伯山は、1923年(大正12年)の関東大震災で被災し、その後は、東京の上野公園で野外の講談会を開き、多くの人々に講談を届けました。

伯山は、1936年(昭和11年)に死去しましたが、彼の功績は、講談界に大きな影響を与えました。伯山は、講談の近代化に貢献しただけでなく、講談の魅力を多くの人々に伝え、講談を庶民の娯楽として定着させました。

伯山の講談は、その滑舌の良さ、抑揚のある語り口、そして、その講談の内容の面白さから、多くの人々に愛されました。伯山は、講談を単なる娯楽ではなく、人生の教訓を伝えるものとして捉え、講談を通して人々に人生の生き方を説きました。

伯山の講談は、現在でも多くの講談師によって演じられ、その人気は衰えることがありません。伯山の講談は、日本の伝統芸能である講談の貴重な財産として、これからも語り継がれていくことでしょう。

神田伯山(3代)の代表作『清水次郎長伝』

神田伯山(3代)の代表作『清水次郎長伝』

神田伯山(3代)の代表作『清水次郎長伝』

明治~昭和前期にかけて活躍した講談師、神田伯山(3代)。その功績は、衰退の一途をたどっていた講談を復興させ、現代に語り継がれる多くの講談作品を残したことにある。その中でも、彼の代表作とも言えるのが『清水次郎長伝』です。

『清水次郎長伝』は、清水次郎長とその仲間たちの義侠譚を題材とした講談で、伯山(3代)はこれを得意としていました。この作品は、次郎長が強盗団の頭目から義賊となり、やがて清水一家の親分となるまでの物語で、その痛快な展開と伯山(3代)の迫真の語り口で、多くの聴衆を魅了しました。

伯山(3代)の『清水次郎長伝』は、単なる講談にとどまらず、文学的な価値も高い作品として評価されています。その特徴は、次郎長と敵対する勢力との攻防を、大河ドラマのように壮大に描き出した点にあります。また、次郎長を始めとする登場人物たちの心情や生き様を丁寧に描写することで、講談に深みを与えています。

伯山(3代)の『清水次郎長伝』は、その芸術性の高さから、多くの演劇や映画、テレビドラマなどの原作となりました。また、その作品が後世の講談師たちに与えた影響も大きく、現代でも多くの講談師がこの作品をレパートリーに取り入れています。

『清水次郎長伝』は、神田伯山(3代)が生み出した不朽の名作として、現在でも多くの人々に愛され続けています。その痛快な展開と深い人間ドラマは、時代を超えて人々の心を惹きつけています。

神田伯山の異名「八丁荒らし」の由来

神田伯山の異名「八丁荒らし」の由来

神田伯山の異名「八丁荒らし」の由来

神田伯山は、明治・昭和時代前期の講談師。本名は林家喜三郎。東京・下谷の生まれ。

幼い頃から講談に親しみ、15歳で3代目神田伯山に入門。19歳で「早稲田稲門暗殺譚」で初舞台を踏む。その後、真打となり、講談界のトップスターとなった。

伯山は、その話芸の巧みさと、ユーモアのある語り口で、多くのファンを獲得した。また、社会問題や政治問題にも鋭く切り込み、時事講談にも力を入れた。

伯山の異名「八丁荒らし」は、彼の講談のすごさを表したものである。八丁とは、江戸時代の長さの単位で、約87メートル。伯山の講談は、聴衆を87メートルも引き込むほど、迫力があったということである。

伯山は、1927年に43歳で急逝したが、その講談は今もなお語り継がれている。

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