岸野次郎三郎:江戸時代前期から中期の歌舞伎三味線方、作曲家

岸野次郎三郎:江戸時代前期から中期の歌舞伎三味線方、作曲家

宝永2年から京都早雲座で立三味線

宝永2年から京都早雲座で立三味線

-宝永2年から京都早雲座で立三味線-

宝永2年(1705年)に、岸野次郎三郎は京都の早雲座で立三味線としてデビューしました。立三味線とは、歌舞伎の伴奏を務める三味線の奏者のうち、最も重要な役割を担う演奏者のことです。次郎三郎は、その卓越した三味線の演奏技術と、作曲の才能でたちまち評判となり、早雲座の看板役者となりました。

次郎三郎の三味線の演奏は、力強くダイナミックでありながら、繊細で優美なものでした。また、次郎三郎は、歌舞伎の演目に合わせて新しい曲を作曲することに長けており、その作曲した曲は、多くの歌舞伎役者に愛されました。次郎三郎の作曲した曲の中でも、特に有名なのが「勧進帳」の「安宅の松」です。この曲は、今もなお歌舞伎で演奏されており、その美しい旋律で観客を魅了しています。

次郎三郎は、京都早雲座で立三味線として活躍した後、江戸の歌舞伎座でも活躍しました。次郎三郎は、江戸歌舞伎の改革に尽力し、その功績は、歌舞伎の歴史において大きなものとなっています。次郎三郎は、寛延2年(1749年)に亡くなりましたが、その残した功績は、今もなお語り継がれています。

山本喜市と並び称される三味線方

山本喜市と並び称される三味線方

山本喜市と並び称される三味線方

岸野次郎三郎と同じく、江戸時代前期から中期の歌舞伎三味線方、作曲家として著名なのが山本喜市です。彼は、明暦元年(1655年)に京都で生まれ、元禄11年(1698年)に亡くなりました。喜市は、江戸に出て中村座で活躍した後、京都に戻って都座の三味線方として活躍しました。彼は、三味線の演奏技術に優れていただけでなく、作曲家としても活躍し、多くの浄瑠璃や歌舞伎の曲を作曲しました。

喜市が作曲した浄瑠璃の曲としては、「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」などが有名です。これらの曲は、現在でも多くの歌舞伎や浄瑠璃の公演で演奏されています。また、喜市は歌舞伎の曲も作曲しており、「歌舞伎十八番」に含まれる「勧進帳」や「助六由縁江戸桜」などの曲を作曲しました。

喜市は、その優れた三味線の演奏技術と作曲能力で、江戸時代前期から中期にかけての歌舞伎界に大きな影響を与えました。彼は、岸野次郎三郎と並び称される三味線方として、現在でも多くの歌舞伎ファンから愛されています。

榊山小四郎父子の舞踊曲の作曲

榊山小四郎父子の舞踊曲の作曲

榊山小四郎父子の舞踊曲の作曲

岸野次郎三郎の代表作のひとつが、榊山小四郎父子の舞踊曲である。小四郎は、江戸時代前期の狂言師であり、踊りも得意としていた。彼の息子である半四郎は、小四郎が亡くなった後、父の名跡を継ぎ、舞踊家として活躍した。

次郎三郎は、小四郎父子の舞踊のために、数多くの曲を作曲している。その中でも有名なのが、「勧進帳」である。この曲は、源義経と弁慶が、平家方の追手を逃れて奥州へ向かう途中で、安宅の関で関守の富樫左衛門に疑われる場面を描いている。義経は、弁慶に命じて富樫をだまし討ちにし、関所を突破する。

「勧進帳」は、次郎三郎の最も有名な曲のひとつであり、現在でも歌舞伎や日本舞踊でよく上演されている。この曲は、次郎三郎の音楽的才能と、小四郎父子の舞踊の素晴らしさを伝える名曲である。

次郎三郎は、小四郎父子の他にも、多くの舞踊家のために曲を作曲している。その中には、出雲阿国、沢村宗十郎、坂田藤十郎などの名優も含まれている。次郎三郎の曲は、舞踊家の個性を生かしたものであり、舞踊の美しさを引き立てる効果があった。

次郎三郎は、舞踊曲の作曲家として、江戸時代の歌舞伎の発展に大きな貢献をした。彼の曲は、現在でも歌舞伎や日本舞踊で上演されており、人々に愛され続けている。

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