北白川房子 – 明治天皇の第7皇女

北白川房子 – 明治天皇の第7皇女

北白川房子の生涯

北白川房子の生涯

-小見出し 北白川房子の生涯-

北白川房子は、明治天皇の第7皇女で、1889年(明治22年)9月18日に誕生しました。聡明で学問好きな女性として知られ、皇族として初めて女子学習院高等科を卒業しました。

1908年(明治41年)に北白川宮成久王と結婚し、1910年(明治43年)に第一子である fua(房子)を、1915年(大正4年)に第二子である成王を出産しました。

房子は、皇族として公務に励むとともに、家庭では良妻賢母として子女の養育に努めました。また、社会貢献にも熱心で、日本赤十字社の活動や、養蚕業の振興などに尽力しました。

1940年(昭和15年)、房子は50歳でその生涯を閉じました。その死は、皇室のみならず国民にも大きな悲しみを与えました。

房子は、その聡明さと教養、そして慈愛に満ちた人柄で、多くの国民から敬愛されていました。その死は、日本の皇室にとって大きな損失となりました。

北白川房子の夫と子供たち

北白川房子の夫と子供たち

-北白川房子の夫と子供たち-

北白川房子の夫は、北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう)です。能久親王は、明治天皇の第4皇男子で、房子の兄である嘉仁親王(後の大正天皇)とは異母兄弟にあたります。1887年(明治20年)に学習院を卒業後、陸軍士官学校に進学し、1890年(明治23年)に陸軍少尉に任官されました。その後、陸軍大学校を卒業し、1902年(明治35年)に陸軍大佐に昇進しました。日露戦争に従軍し、功績を挙げました。1909年(明治42年)に房子と結婚し、1910年(明治43年)に陸軍少将に昇進しました。1911年(明治44年)に北白川宮を創設され、初代当主となりました。1913年(大正2年)に陸軍中将に昇進し、1918年(大正7年)には陸軍大将に昇進しました。1922年(大正11年)に薨去し、享年47でした。

房子と能久親王の間には、4男2女が生まれました。長男は、北白川宮成久王(きたしらかわのみや なりひさおう)です。成久王は、1910年(明治43年)に生まれ、1933年(昭和8年)に満州国皇帝溥儀の妹である祥貴妃と結婚しました。1937年(昭和12年)に北白川宮を継承し、第2代当主となりました。1943年(昭和18年)に薨去し、享年33でした。

次男は、北白川宮永久王(きたしらかわのみや ひさひさおう)です。永久王は、1915年(大正4年)に生まれ、1940年(昭和15年)に島津忠秀(しまづただひで)の娘である多恵子と結婚しました。1947年(昭和22年)に北白川宮を継承し、第3代当主となりました。1966年(昭和41年)に薨去し、享年51でした。

三男は、北白川宮美久王(きたしらかわのみや みつひさおう)です。美久王は、1917年(大正6年)に生まれ、1943年(昭和18年)に酒井忠篤(さかいただあつ)の娘である勢津子と結婚しました。1967年(昭和42年)に北白川宮を継承し、第4代当主となりました。1988年(昭和63年)に薨去し、享年71でした。

四男は、北白川宮道久王(きたしらかわのみや みちひさおう)です。道久王は、1919年(大正8年)に生まれ、1943年(昭和18年)に東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)の娘である聡子と結婚しました。1991年(平成3年)に北白川宮を継承し、第5代当主となりました。

長女は、北白川房子内親王(きたしらかわふさこのないしんのう)です。房子内親王は、1912年(明治45年)に生まれ、1935年(昭和10年)に久邇宮朝融王(くにのみや あさながおう)と結婚しました。1980年(昭和55年)に薨去し、享年69でした。

次女は、北白川祥子女王(きたしらかわさちこじょおう)です。祥子女王は、1913年(大正2年)に生まれ、1934年(昭和9年)に梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう)と結婚しました。1983年(昭和58年)に薨去し、享年70でした。

北白川房子の事故と皇籍離脱

北白川房子の事故と皇籍離脱

北白川房子の事故と皇籍離脱

北白川房子は、明治天皇の第7皇女として1880年に誕生しました。1895年に北白川宮成久王と結婚し、1897年に男子を出産しました。しかし、1901年、房子は乗馬中に落馬事故を起こし、重傷を負いました。この事故により、房子は皇籍を離脱することになりました。

皇籍を離脱後、房子は武者小路実篤の主宰する新しき村に参加し、農業や文筆活動に従事しました。また、社会奉仕活動にも熱心に取り組み、特に女性や児童の教育に力を注ぎました。

房子は、1939年に59歳で亡くなりました。その生涯は、波乱に満ちたものでしたが、決して屈することなく、常に新しいことに挑戦し続けた女性でした。

北白川房子の事故については、様々な説があります。一説によると、落馬事故は意図的なもので、房子は自ら命を絶とうとしたのではないかとされています。また、房子は落馬事故の後も皇族として生活を続けることを希望していましたが、明治天皇の強い反対により、皇籍離脱を余儀なくされたという説もあります。

いずれにせよ、北白川房子の事故は、彼女の運命を大きく変える出来事となりました。皇籍離脱後、房子は自由な身となり、新しい人生を歩むことができましたが、その一方で、皇族としての立場を失ったことで、大きな心の傷を負ったことは間違いありません。

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