「甘南備内親王」

「甘南備内親王」

桓武天皇の第12皇女

桓武天皇の第12皇女

桓武天皇の第12皇女

桓武天皇の第12皇女である甘南備内親王は、788年に生まれました。母は桓武天皇の妃である藤原旅子です。甘南備内親王は、806年に斎王に任命され、810年まで伊勢神宮に仕えました。810年に皇太子である大伴親王(後の嵯峨天皇)と結婚し、811年に第一皇子である淳和天皇を出産しました。しかし、甘南備内親王は812年に24歳の若さで亡くなり、淳和天皇は816年に即位しました。

甘南備内親王は、聡明で美しい女性であり、桓武天皇や嵯峨天皇から寵愛されました。甘南備内親王は、淳和天皇の他に、桓武天皇の第13皇女である春原内親王、嵯峨天皇の第一皇子である仁明天皇、第二皇子である正良親王、第三皇子である宗康親王、第四皇子である良岑安世、第五皇子である源常、第六皇子である源恒、第七皇子である源融、第八皇子である源潔、第九皇子である源清、第十皇子である源明、十一皇子である源常、十二皇子である源定、十三皇子である源保、十四皇子である源信、十五皇子である源国、十六皇子である源弘、十七皇子である源宗、十八皇子である源光、十九皇子である源清、二十皇子である源重、二十一皇子である源正、二十二皇子である源清、二十三皇子である源季、二十四皇子である源明の母でもあります。

甘南備内親王は、平安時代の皇室に大きな影響を与えた女性であり、その子孫は、後の皇室や貴族の祖先となりました。

延暦23年に安芸の土地をあたえられた

延暦23年に安芸の土地をあたえられた

延暦23年に安芸の土地をあたえられた

甘南備内親王は、桓武天皇の第三皇女であり、母は藤原乙牟漏です。延暦10(791)年に生まれ、806年に内親王宣下を受けました。

延暦23(804)年、安芸国(現在の広島県)の土地を賜りました。これは、同年に藤原薬子が出家して内親王宣下を受け、安芸国と阿波国(現在の徳島県)の土地を賜ったのと同じ待遇です。

甘南備内親王が安芸国の土地を賜ったのは、皇族としての格式を示すためと考えられます。また、安芸国は藤原氏の勢力が強かったため、藤原氏との関係を深めるためでもあったかもしれません。

甘南備内親王は、安芸国の土地を賜った後も京都で暮らしました。承和13(846)年に亡くなり、京都の西郊にある長楽寺に葬られました。

甘南備内親王は、皇族として高い格式を持ち、藤原氏とも親密な関係を築いた人物でした。安芸国の土地を賜ったのは、その権勢の表れであると考えられます。

弘仁8年に死去

弘仁8年に死去

弘仁8年に死去

甘南備内親王は、弘仁8年(817年)に29歳で薨去しました。死因は不明ですが、一説には病死とも、一説には謀殺ともいわれています。

甘南備内親王の死は、桓武天皇にとって大きな衝撃だったと思われます。甘南備内親王は桓武天皇の最愛の娘であり、皇位継承者としても期待されていました。甘南備内親王の死により、桓武天皇は皇位継承者を定めなければならなくなりました。

桓武天皇は、その後、皇太子を嵯峨天皇に定めました。嵯峨天皇は、淳和天皇の父であり、仁明天皇の祖父にあたります。嵯峨天皇は、仁明天皇に皇位を譲り、仁明天皇は清和天皇に皇位を譲りました。

このように、甘南備内親王の死は、桓武天皇の死後、皇位継承に大きな影響を与えました。

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