寛隆入道親王 – 江戸時代前期の皇族・僧侶

寛隆入道親王 – 江戸時代前期の皇族・僧侶

皇族として

皇族として

-皇族として-

寛隆入道親王は、寛永5年(1628年)7月25日、後水尾天皇の第五皇子として京都御所で誕生しました。母は、女御・岡崎局(こうざきのつぼね)(藤原忠利の娘)。寛永13年(1636年)9月5日、9歳の時に妙心寺に入室し、興宗玄甫(こうそうげんぽ)を師として得度しました。法名は、寛隆。

寛永16年(1639年)10月25日、12歳の時に仙洞御所の仮御所に入る。寛永18年(1641年)1月13日、14歳の時に東宮(のちの後光明天皇)の御陪従として参内し、以後、東宮に仕える。寛永19年(1642年)8月2日に剃髪して僧籍に入り、寛永21年(1644年)1月21日には親王宣下を受け、寛隆入道親王を称しました。

寛永23年(1646年)3月13日、19歳の時に興宗玄甫より法を嗣ぎ、妙心寺の第68世住持となりました。寛文5年(1665年)7月29日、38歳の時に隠退し、妙心寺の住職は、弟の公弁入道親王が継ぎました。

寛隆入道親王は、皇族として、公務に励み、宮廷文化の振興に尽力しました。また、僧侶としても、妙心寺の復興に尽力し、後世に大きな影響を与えました。寛永20年(1643年)2月1日に中御門天皇の近衛舎人となり、同年8月1日に右衛門佐を兼任しました。

寛永22年(1645年)3月20日には左衛門督を兼任し、同年閏3月20日には右近衛権少将に任じられました。寛文2年(1662年)1月4日には権中納言に任じられ、同年12月29日には権大納言に昇進しました。寛文4年(1664年)9月14日には内大臣に任じられました。

寛隆入道親王は、寛文5年(1665年)12月22日に薨去しました。享年38。妙心寺にある冷泉山陵に葬られました。

僧侶として

僧侶として

寛隆入道親王 – 江戸時代前期の皇族・僧侶

僧侶として

寛隆入道親王は、幼い頃から仏教に親しみ、16歳で出家して僧侶となりました。法名は道照、号は広源院。京都の東福寺に住み、禅宗を学びました。

寛隆入道親王は、僧侶として非常に優れた人物であり、多くの弟子を持ちました。また、多くの禅宗寺院を建立し、禅宗の普及に努めました。中でも、京都の円覚寺は、寛隆入道親王が建立した禅宗寺院の中でも最も有名な寺院の一つです。

寛隆入道親王は、僧侶としてだけでなく、政治家としても活躍しました。徳川家光や徳川家綱の信任を得て、朝廷と幕府の仲介役を務めました。また、朝廷の儀式や行事にも多く参列し、朝廷の権威を高めることに貢献しました。

寛隆入道親王は、1649年に66歳で亡くなりました。その死後、皇族でありながら僧侶としての功績を讃えられ、東福寺の塔頭に葬られました。

寛隆入道親王は、江戸時代前期の皇族・僧侶として、朝廷と幕府の仲介役を務め、禅宗の普及や朝廷の権威向上に貢献した人物です。

業績

業績

-業績-

寛隆入道親王は、皇族として、また僧侶として、数多くの業績を残しました。

-皇族としての業績-

寛隆入道親王は、後水尾天皇の第七皇子として生まれ、二条城で幼少期を過ごしました。1612年、11歳の時に後陽成天皇の猶子となり、親王宣下を受けました。1629年、28歳の時に東宮に冊立されましたが、翌年に後水尾天皇が譲位したため、皇位を継承することなく、そのまま東宮のままでした。1643年、42歳の時に、東宮から辞退し、出家して法名を寛隆としました。

-僧侶としての業績-

寛隆入道親王は、出家後、東本願寺の学寮である蓮台院で修行しました。1651年、50歳の時に、東本願寺の法主となりました。法主として、東本願寺の復興に尽力し、多くの寺社を建立しました。また、学問を奨励し、多くの僧侶を育成しました。

-文化的業績-

寛隆入道親王は、和歌や書画にも優れていました。特に和歌は、後水尾天皇に師事し、その才能を高く評価されました。寛隆入道親王が詠んだ和歌は、多くの和歌集に収められています。また、書画も得意で、その作品は、現在でも多くの美術館に収蔵されています。

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