義延入道親王の波乱に満ちた生涯

義延入道親王の波乱に満ちた生涯

生い立ちと出家

生い立ちと出家

-生い立ちと出家-
義延入道親王は、後醍醐天皇の第8皇子として1326年に生まれました。母は、藤原俊基の娘である藤原廉子です。義延入道親王は、幼少の頃から聡明で、和歌や琵琶などの芸能に秀でていたと伝えられています。

しかし、1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府に滅ぼされ、吉野に逃れた際に、義延入道親王は捕らえられ、鎌倉に連行されました。鎌倉では、義延入道親王は建長寺に幽閉され、出家させられました。

出家後は、覚恵と名乗り、建長寺で修行を積みました。1333年に後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して建武の新政を樹立すると、義延入道親王は建長寺を出て、京都に戻りました。京都では、三宝院に住み、後醍醐天皇の側近として仕えました。

1336年に後醍醐天皇が足利尊氏によって京都を追われると、義延入道親王も尊氏に追われて吉野に逃れました。吉野では、後醍醐天皇とともに南朝を樹立しましたが、1339年に尊氏に吉野を攻められ、九州に逃れました。

九州では、菊池武敏の庇護を受け、南朝の拠点として菊池城に拠りました。しかし、1348年に菊池城が尊氏に攻め落とされ、義延入道親王は捕らえられました。捕らえられた義延入道親王は、京都に連行され、建長寺に幽閉されました。

1351年に尊氏が没すると、義延入道親王は建長寺から出され、京都に戻りました。京都では、三宝院に住み、後村上天皇の側近として仕えました。1368年に後村上天皇が没すると、義延入道親王は三宝院を出て、吉野に逃れました。

吉野では、南朝の拠点として金剛山に拠りました。しかし、1392年に明徳の和約が結ばれ、南朝が滅亡すると、義延入道親王は吉野を出て、京都に戻りました。京都では、三宝院に住み、1398年に73歳で亡くなりました。

園城寺での活躍と辞任

園城寺での活躍と辞任

-園城寺での活躍と辞任-

義延入道親王は、1141年に園城寺の住職に就任しました。彼は、園城寺を中興し、その権威を高めるために尽力しました。

義延入道親王は、園城寺に多くの堂舎を建立しました。また、園城寺の僧侶に学問を奨励し、園城寺を学問の拠点としました。また、義延入道親王は、園城寺と朝廷との関係を強化し、園城寺の政治的地位を高めました。

しかし、義延入道親王の活躍は、長くは続きませんでした。1160年、平清盛が園城寺を攻撃し、義延入道親王は園城寺を退去せざるを得なくなりました。義延入道親王は、その後も平清盛と戦い続けましたが、最後は捕らえられて処刑されました。

義延入道親王は、波乱に満ちた生涯を送りましたが、園城寺の中興という功績を残しました。また、義延入道親王は、平清盛と戦い続けたことから、平清盛打倒の英雄として語り継がれています。

晩年と死

晩年と死

晩年と死

義延入道親王は、晩年に至るまで波乱に満ちた生涯を送りました。承保3年(1076年)、白河天皇の崩御に伴い、堀河天皇が即位すると、義延入道親王は、堀河天皇の母である藤原歓子(かんし)の圧力によって、出家させられました。しかし、義延入道親王は、出家後も、政界への復帰を諦めず、度々、堀河天皇に接近を試みました。

承徳2年(1098年)、堀河天皇が崩御すると、同母弟の鳥羽天皇が即位しました。鳥羽天皇は、義延入道親王の復帰を許し、義延入道親王は、再び、政界に復帰しました。しかし、義延入道親王は、鳥羽天皇の側近である藤原忠実と対立し、永長2年(1097年)、再び、出家させられました。

義延入道親王は、出家後は、嵯峨野に閑居し、晩年を過ごしました。また、義延入道親王は、歌人としても知られ、家集である『義延入道親王家集』を残しています。また、義延入道親王は、日本文学史上、初めて、日記文学である『後拾遺和歌集』を編纂した人物としても知られています。

康治2年(1143年)、義延入道親王は、70歳で薨去しました。義延入道親王は、波乱に満ちた生涯を送りましたが、歌人として、また、日記文学の編纂者として、日本の文化に大きな貢献をした人物でした。

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