「三条局(2)」

「三条局(2)」

建保7年鎌倉雪ノ下に屋敷

建保7年鎌倉雪ノ下に屋敷

-「三条局(2)」-

-建保7年鎌倉雪ノ下に屋敷-

建保7年(1219年)3月、三条局は鎌倉に下向しました。その理由は、源実朝が三条局を北条義時の養女として迎え、正室にしようとしたからです。しかし、三条局は鎌倉での生活になじめず、建保8年(1220年)には京都に戻ってしまいます。

三条局が鎌倉に滞在していたのは、雪ノ下にあった屋敷です。この屋敷は、北条義時が三条局のために用意したもので、広大な敷地を有していました。屋敷内には、三条局の住居の他に、女房たちの住居や、倉、厩などの建物が建ち並んでいました。

三条局は、鎌倉に滞在していた短い期間の間に、源実朝と結婚しました。しかし、源実朝は建保9年(1221年)に暗殺されてしまい、三条局は未亡人となってしまいます。三条局は、源実朝の死後も鎌倉に留まり、建保11年(1223年)に京都に戻りました。

三条局が鎌倉に滞在していた屋敷は、その後も北条氏によって管理され、鎌倉幕府の有力者の屋敷として利用されました。屋敷は、元弘の乱(1331年)で焼失しましたが、その後も跡地は北条氏によって管理され続けました。

現在、三条局が鎌倉に滞在していた屋敷の跡地には、鶴岡八幡宮の境外社である雪ノ下社の社殿が建っています。雪ノ下社は、三条局を祀る神社として、地元の人々から親しまれています。

承久3年に自宅が北条義時の妻の産所

承久3年に自宅が北条義時の妻の産所

-承久3年に自宅が北条義時の妻の産所-

承久3年(1221年)、北条義時の妻が三条局の自宅で出産しました。この出来事は、三条局の社会的地位の高さを物語るものです。

北条義時は、鎌倉幕府の第3代執権を務めた人物です。彼は、有力御家人である北条政子の弟であり、源頼朝とも親しい関係にありました。承久3年には、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討伐するため、承久の乱を起こしました。しかし、北条義時はこの乱を鎮圧し、幕府の権威を確立しました。

北条義時の妻は、足利義兼の娘であり、北条政子の姪にあたります。彼女は、容姿端麗で知られ、北条義時との間に多くの子供をもうけました。承久3年に、彼女は三条局の自宅で出産しました。これは、三条局が北条義時夫妻から厚い信頼を得ていたことを示しています。

三条局は、藤原頼通の娘であり、藤原師通の妹にあたります。彼女は、後白河天皇の乳母を務め、その寵愛を受けました。承久3年には、彼女は北条義時の妻の出産に立ち会いました。これは、三条局が朝廷からも厚い信頼を得ていたことを示しています。

三条局の自宅が北条義時の妻の産所となったことは、彼女が社会的地位の高い女性であったことを物語るものです。彼女は、朝廷からも鎌倉幕府からも厚い信頼を得ており、その影響力は絶大でした。

寛元2年9月28日死去

寛元2年9月28日死去

-寛元2年9月28日死去-

三条局(藤原通子)は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家、4代将軍・藤原頼経の乳母であり、9代執権・北条貞時の外祖母にあたる女性です。

寛元2年(1244年)9月28日、三条局は77歳で亡くなりました。

三条局は、伊賀国(現在の三重県伊賀市)の出身で、藤原通綱の娘でした。建久5年(1194年)、源頼家の乳母となり、頼家が将軍になると三条局と呼ばれました。

頼家が失脚した後も、三条局は頼家の遺児である頼経の乳母となり、頼経が将軍になると、北条氏と頼経の婚姻を仲介しました。

また、三条局は北条貞時の母(安保実員の正室でもある)である北条政子(平時政の娘)の異父姉妹でもあったため、頼経と北条貞時の婚姻も仲介したと考えられています。

三条局は、鎌倉幕府の政権運営に大きな影響力を持ちました。

頼家、頼経の将軍在任中は、側近として政治に参画し、頼経が廃位された後も、北条氏と頼経の婚姻を仲介するなど、鎌倉幕府の政権運営に影響を与え続けました。

三条局の死は、鎌倉幕府にとって大きな損失であり、頼経の廃位や北条氏の権力強化など、その後の鎌倉幕府の政権運営に大きな影響を与えました。

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