「喜久宮」

「喜久宮」

喜久宮の概要

喜久宮の概要

-「喜久宮」-

-概要-

喜久宮(きくのみや)は、香川県塩飽諸島本島中通にある江戸時代末期の御茶屋建築である。国の重要文化財に指定されている。

藩主松平頼胤が自ら設計し、1853年(嘉永6年)に建築開始し、1862年(文久2年)に完成した。御茶屋とは、江戸時代における藩主の別邸や休憩所のことであり、喜久宮もまた松平頼胤の別邸として使用された。

喜久宮は、木造平屋建て、寄棟造、鉄板葺きの建物で、総面積は約160坪である。建物の正面は南面しており、正面に唐破風、左右に軒唐破風を設けている。内部は、玄関、広間、茶室、納戸などで構成されており、広間には床の間、違棚、付け書院などが設けられている。

喜久宮は、江戸時代末期の御茶屋建築の代表例として貴重な建造物であり、また、松平頼胤が自ら設計したという点でも注目される建物である。2003年(平成15年)に国の重要文化財に指定された。現在は、一般公開されており、誰でも見学することが可能である。

喜久宮の生い立ちと経歴

喜久宮の生い立ちと経歴

-喜久宮の生い立ちと経歴-

喜久宮(きくにのみや)は、日本の皇族。伏見宮博恭王の第二王男子。母は妃・博恭王妃知子。諱は昌仁(まさひと)。

-生い立ち-

1916年(大正5年)12月2日、東京市麹町区永田町(現・千代田区永田町)の伏見宮邸で誕生。幼少期は、同邸で過ごした。

1922年(大正11年)4月、学習院初等科に入学。1928年(昭和3年)4月、学習院中等科に進学。1934年(昭和9年)4月、学習院高等科に進学。1937年(昭和12年)3月、学習院高等科を卒業。

-海軍時代-

1937年(昭和12年)4月、海軍兵学校に入校。1940年(昭和15年)11月、海軍兵学校を卒業。海軍少尉に任官。

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が開戦。喜久宮は、海軍第11戦隊(司令官・原忠一少将)の駆逐艦「潮」に乗艦し、マレー作戦に参加。1942年(昭和17年)2月、駆逐艦「雪風」に乗艦し、スラバヤ沖海戦に参加。

同年3月、駆逐艦「島風」に乗艦し、インド洋空襲に参加。同年5月、駆逐艦「夕雲」に乗艦し、ミッドウェー海戦に参加。同年7月、駆逐艦「嵐」に乗艦し、ソロモン諸島海戦に参加。同年8月、駆逐艦「萩風」に乗艦し、ブナ作戦に参加。

1943年(昭和18年)2月、駆逐艦「時雨」に乗艦し、ガダルカナル島撤退作戦に参加。同年3月、駆逐艦「陽炎」に乗艦し、ビスマルク海海戦に参加。同年5月、駆逐艦「谷風」に乗艦し、アッツ島撤退作戦に参加。

同年6月、駆逐艦「秋霜」に乗艦し、キスカ島撤退作戦に参加。同年7月、駆逐艦「響」に乗艦し、コロンバンガラ島沖海戦に参加。同年10月、駆逐艦「大波」に乗艦し、南太平洋海戦に参加。

1944年(昭和19年)1月、駆逐艦「浦風」に乗艦し、トラック島空襲に参加。同年3月、駆逐艦「磯風」に乗艦し、パラオ諸島空襲に参加。同年6月、駆逐艦「初風」に乗艦し、マリアナ沖海戦に参加。同年8月、駆逐艦「秋風」に乗艦し、レイテ沖海戦に参加。

同年10月、駆逐艦「雪風」に乗艦し、台湾沖航空戦に参加。同年12月、駆逐艦「島風」に乗艦し、マニラ湾攻撃に参加。

1945年(昭和20年)1月、駆逐艦「時雨」に乗艦し、リンガエン湾上陸に参加。同年2月、駆逐艦「陽炎」に乗艦し、硫黄島攻略に参加。同年3月、駆逐艦「谷風」に乗艦し、沖縄戦に参加。

同年4月、駆逐艦「秋霜」に乗艦し、沖縄戦に参加。同年5月、駆逐艦「響」に乗艦し、沖縄戦に参加。同年6月、駆逐艦「大波」に乗艦し、沖縄戦に参加。

同年7月、駆逐艦「浦風」に乗艦し、沖縄戦に参加。同年8月、駆逐艦「磯風」に乗艦し、沖縄戦に参加。同年9月、駆逐艦「初風」に乗艦し、沖縄戦に参加。同年10月、駆逐艦「秋風」に乗艦し、沖縄戦に参加。

-戦後-

1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争が終結。喜久宮は、海軍を退役。同年10月、伏見宮邸に戻った。

同年11月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から、皇族の公職追放を命じられた。これにより、喜久宮は、公的な活動ができなくなった。

1947年(昭和22年)10月、華族制度が廃止され、喜久宮は、平民となった。

1951年(昭和26年)11月、喜久宮は、元侯爵の公爵・久邇宮朝融王次女の信子と結婚した。翌年、長女の貴子、1953年(昭和28年)に二女の順子、1955年(昭和30年)に三女の由紀子が誕生した。

1988年(昭和63年)10月、喜久宮は、72歳で薨去した。葬儀は、11月1日に青山葬儀所で営まれた。

喜久宮の逝去と諡号

喜久宮の逝去と諡号

-喜久宮の逝去と諡号-

喜久宮寛仁親王は、昭和42年(1967)12月22日、22歳の若さで薨去されました。その死は、国民に大きな衝撃を与え、深い悲しみに包まれました。

寛仁親王は、昭和21年(1946)8月10日、皇太子明仁親王(現上皇陛下)と皇太子妃美智子妃(現上皇后美智子陛下)の長男として誕生されました。幼少の頃から聡明で、スポーツ万能な少年として知られていました。

昭和42年(1967)4月、学習院大学法学部政治学科に入学されました。大学在学中も、積極的に課外活動に参加し、学生運動のリーダーとして活躍されました。

しかし、同年12月14日、寛仁親王は急性骨髄性白血病を発症されました。その後、約2ヶ月間、必死に病と闘われましたが、ついに力尽き、薨去されました。

寛仁親王の薨去に際し、昭和天皇は、「寛仁親王は、聡明にして温厚、常に皇室の使命を深く自覚し、国民に親しまれていました。その薨去は、誠に痛惜に堪えません」との深い悼みを示されました。

また、国民の間でも、寛仁親王の薨去は大きな悲しみをもって受け止められました。多くの人々が、寛仁親王の早すぎる死を悼み、冥福を祈りました。

寛仁親王の薨去後、昭和天皇は、寛仁親王に「常陸宮」の諡号を贈られました。諡号とは、死後に贈られる称号であり、その人の功績や人柄を顕彰する意味があります。

常陸宮の諡号は、寛仁親王が、常陸国(現在の茨城県)に祀られている鹿島神宮の神前で結婚式を挙げられたことに由来しています。また、寛仁親王が、常陸国を愛し、同国の復興に尽力された功績を讃える意味もあります。

常陸宮の諡号は、寛仁親王の人柄と功績を後世に伝えるとともに、国民の悲しみを癒す役割を果たしています。

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