正親町三条公積 → 江戸時代中期の公卿

正親町三条公積 → 江戸時代中期の公卿

正親町三条公積の生涯

正親町三条公積の生涯

-正親町三条公積の生涯-

正親町三条公積(おぎまちさんじょう きんつね)は、江戸時代中期の公卿。父は正親町三条実康。官位は従一位摂政・関白。

-生い立ち-

正親町三条公積は、宝暦4年(1754年)に正親町三条実康の次男として生まれる。母は園基園の娘・祉子。幼名は孝章。

-朝廷での活躍-

明和4年(1767年)、14歳の時に元服して内大臣に任じられる。その後、侍従、右近衛少将、権中納言、踏歌節会外弁などを歴任。

安永元年(1772年)、関白・近衛前久が死去すると、後任の関白に就任。わずか18歳の若さでの関白就任であった。

関白として、朝政を主導。天明の飢饉や寛政の改革など、様々な出来事に対応した。

享和2年(1802年)、76歳で死去。

-人物-

公積は、聡明で知られ、和歌や漢詩にも優れた才能を持っていた。また、書画にも巧みで、多くの作品を残している。

-主な業績-

・天明の飢饉の際に、民衆に食料を配布するなど、救済活動を行った。

・寛政の改革では、松平定信の改革を支持し、その推進に協力した。

・和歌や漢詩にも優れた才能を持ち、多くの作品を残している。

-正親町三条公積の墓-

正親町三条公積の墓は、京都市右京区にある大雲院にある。

正親町三条公積の功績

正親町三条公積の功績

正親町三条公積の功績

正親町三条公積は、江戸時代中期の公卿です。関白・正親町三条実豊の三男として生まれ、権大納言・正親町三条公積の養子となりました。正親町三条家は、五摂家の一つである清華家でしたが、公積は家督を継がずに、功績を上げて出世しました。

公積は、初め、権中納言・三条西実隆の猶子となり、三条西家に入りました。その後、権大納言・正親町三条実豊の養子となり、正親町三条家を継ぎました。公積は、朝廷で要職を歴任し、関白・内大臣・右大臣を歴任しました。また、公積は、和歌や書道の名手としても知られていました。

公積の功績の一つに、寛永寺大仏殿の再建があります。寛永寺大仏殿は、寛永10年(1633年)に火災で焼失しましたが、公積は、寛永15年(1638年)に再建を開始しました。再建工事は、約10年をかけて行われ、寛文2年(1662年)に完成しました。寛永寺大仏殿は、現在も京都を代表する観光スポットの一つとなっています。

公積の功績のもう一つに、東山御文庫の創設があります。東山御文庫は、公積が、寛文5年(1665年)に、京都東山にある自邸に設立した文庫です。東山御文庫には、公積が収集した和書・漢書・洋書など、約12万冊の蔵書がありました。東山御文庫は、後に、京都大学に寄贈され、現在も京都大学附属図書館として利用されています。

公積は、寛文9年(1669年)に薨去しました。公積は、朝廷で要職を歴任し、功績を上げて出世した公卿でした。また、公積は、和歌や書道の名手としても知られていました。

正親町三条公積の晩年

正親町三条公積の晩年

– 正親町三条公積の晩年

正親町三条公積は、享保4年(1719年)に江戸幕府の将軍・徳川吉宗に謁見し、上洛を許された。その後、公積は洛北の北山に隠棲し、文筆三昧の日々を送った。

公積は、和歌や連歌に優れており、多くの和歌集や連歌集を残している。また、公積は、書道にも長けており、その書は「公積様」と呼ばれ、珍重された。

公積は、寛保2年(1742年)に83歳で没した。公積の死後、その遺言により、北山の地に公積の菩提寺である正親町三条家菩提寺が建立された。

公積は、江戸時代中期の公卿として、和歌や連歌、書道に優れ、また、多くの和歌集や連歌集を残した。公積の功績は、後世に長く称えられている。

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