津田三蔵 – 明治時代の巡査と大津事件

津田三蔵 – 明治時代の巡査と大津事件

津田三蔵の生涯

津田三蔵の生涯

-津田三蔵の生涯-

津田三蔵は、明治時代の巡査であり、大津事件でロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチを襲撃した暴漢を逮捕したことで知られています。

津田三蔵は、1860年(万延元年)に、愛知県名古屋市で生まれました。幼い頃から困窮しており、9歳のときに名古屋市の巡査の見習いとして採用されます。1875年(明治8年)に巡査となった後、愛知県、三重県、静岡県の警察署に配属されました。

1891年(明治24年)に、津田三蔵は東京府警に転属となりました。同年5月11日、ロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチが日本を訪問し、京都府大津市で歓迎式典が開催されました。津田三蔵は、この警備に当たり、暴漢がニコライ・アレクサンドロヴィチを襲撃した際に、勇敢にもこれを逮捕しました。

津田三蔵のこの功績は、大いに賞賛され、彼は巡査部長に昇進しました。また、政府から勲章も授与されました。1896年(明治29年)には、退職しましたが、その後も東京府警の嘱託として警務に協力しました。

津田三蔵は、1932年(昭和7年)に死去しました。享年73。津田三蔵の功績は、現在でも語り継がれており、彼の墓は東京都台東区の谷中霊園にあります。

西南戦争への参加と滋賀県巡査への任命

西南戦争への参加と滋賀県巡査への任命

-西南戦争への参加と滋賀県巡査への任命-

津田三蔵は、1870年(明治3年)に滋賀県蒲生郡長浜村(現・長浜市)で生まれた。1878年(明治11年)、鹿児島で行われた西南戦争に参加した。西南戦争は、明治政府と西郷隆盛率いる薩摩藩の私学校党との間で行われた内戦である。津田三蔵は、鹿児島県警察の巡査として西南戦争に参加した。西南戦争で西郷隆盛が敗北した後、津田三蔵は滋賀県に帰郷した。

1879年(明治12年)、津田三蔵は滋賀県巡査に任命された。巡査として津田三蔵は、滋賀県の治安維持に努めた。1884年(明治17年)、津田三蔵は滋賀県大津警察署の巡査部長に昇進した。巡査部長として津田三蔵は、大津事件の捜査に当たった。

大津事件とは、1891年(明治24年)に滋賀県大津市で行われたロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ暗殺未遂事件である。津田三蔵は、大津事件の捜査に当たった巡査部長として、犯人の取り調べを担当した。津田三蔵は、犯人の自白を得て、大津事件の捜査を成功させた。大津事件の捜査での功績により、津田三蔵は警部補に昇進した。

津田三蔵は、1912年(明治45年)に滋賀県巡査部長を退職した。退職後は、滋賀県長浜市で暮らし、1934年(昭和9年)に亡くなった。

大津事件の概要と無期徒刑判決

大津事件の概要と無期徒刑判決

-大津事件の概要と無期徒刑判決-

1891年(明治24年)5月11日、滋賀県大津市内で起きた巡査によるロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(後のニコライ2世)に対する暴行事件。この事件は、日本とロシアの関係を悪化させ、日露戦争の遠因となった。

事件当日、ニコライ皇太子は京都から東京へ向かう途中、琵琶湖畔の大津市に立ち寄った。皇太子が人力車に乗って市内を走行中、突然、巡査の津田三蔵がサーベルで皇太子を襲撃した。津田は、皇太子の帽子を切り落とし、顔面を負傷させた。

津田はすぐに逮捕され、裁判にかけられた。裁判では、津田が精神障害者であることが判明し、無期徒刑の判決が下された。津田は1911年(明治44年)に獄死した。

大津事件は、日本とロシアの関係を悪化させた。ロシア政府は、津田の処罰を求めたが、日本政府はこれを拒否した。このため、両国間の関係は険悪となり、1904年(明治37年)には日露戦争が勃発した。

大津事件は、日本の近代史の中で重要な事件である。この事件は、日本とロシアの関係を悪化させ、日露戦争の遠因となった。また、この事件は、日本の近代化と西欧化の過程で、日本人が外国に対して抱いていた複雑な感情を浮き彫りにした。

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