室町幕府10代将軍足利義稙とその生涯

室町幕府10代将軍足利義稙とその生涯

足利義稙の生い立ちと将軍就任

足利義稙の生い立ちと将軍就任

-室町幕府10代将軍足利義稙の生い立ちと将軍就任-

足利義稙は、室町幕府第10代将軍である。父は6代将軍足利義教、母は日野重光の娘である。1436年に誕生し、幼名を亀王丸と名付けられた。義稙は聡明で学問を好み、和歌や連歌にも優れた才能を発揮した。

1441年、義教が暗殺されると、義稙は11歳で将軍に就任した。しかし、将軍就任早々から幕府内で内紛が起こり、義稙は京都を追放されてしまう。その後、義稙は近江や播磨を転々とし、1449年にようやく京都に帰還することができた。

1450年、義稙は再び将軍に就任したが、今度は幕府管領の細川勝元と対立するようになる。勝元は義稙を廃位して、義政を将軍に擁立した。義稙は再び京都を追放され、1457年に隠棲を余儀なくされた。

1464年、義稙は畠山義就の支援を受けて京都に帰還し、3度目の将軍に就任した。しかし、今度は山名宗全と対立するようになり、1467年に再び京都を追放されてしまう。義稙はその後、近江や尾張を転々とし、1473年に死去した。

足利義稙の生涯は、波乱万丈なものであった。将軍に就任しては追放され、また将軍に就任しては追放されるという繰り返しであった。義稙は将軍としての実績はほとんど残していないが、その波乱に満ちた生涯は、室町時代の歴史を語る上で欠かせない存在である。

細川政元の反乱と淡路・阿波への逃亡

細川政元の反乱と淡路・阿波への逃亡

-細川政元の反乱と淡路・阿波への逃亡-

室町幕府10代将軍足利義稙は、永正4年(1507年)に細川政元によって京都から追放され、細川晴元を将軍に擁立した。義稙は、近江の六角定頼を頼り、細川政元との戦いを続けたが、永正6年(1509年)に敗北し、淡路に逃亡した。

義稙は、淡路で政元の追手に追われながら、阿波に逃亡した。阿波の国主細川澄元は、義稙を保護し、細川政元と戦った。永正9年(1512年)、義稙は、細川澄元の援軍を得て、京都に帰還し、将軍に復位した。

細川政元は、義稙の帰還を阻止するために、京都に侵攻したが、義稙は、細川澄元の援軍を得て、細川政元を撃退した。永正10年(1513年)、義稙は、細川政元と和睦し、細川晴元を廃し、足利義晴を将軍に擁立した。

義稙は、細川政元の反乱を平定し、将軍に復位したが、その後も細川政元との戦いが続き、永正14年(1517年)に死去した。義稙の死後、室町幕府は、細川政元の支配下に置かれ、細川政元は、室町幕府の事実上の支配者となった。

室町幕府への復帰と晩年

室町幕府への復帰と晩年

-室町幕府への復帰と晩年-

足利義稙は、1508年に室町幕府の10代将軍に就任したが、すぐに細川高国らに追放されてしまった。義稙は、近江に逃亡して潜伏し、1521年に細川高国の死に乗じて京都に帰還して室町幕府を再興した。

義稙の復帰は、幕府の権威を回復させ、室町時代の中期の繁栄をもたらした。しかし、義稙は、権力を握ろうとする細川澄元と対立し、1527年に再び京都を追放された。義稙は、近江に逃亡して潜伏し、1533年に細川晴元と組んで京都に帰還して室町幕府を再興した。

義稙の復帰は、室町時代の後期に安定期をもたらした。しかし、義稙は、権力を握ろうとする細川晴元と対立し、1546年に再び京都を追放された。義稙は、近江に逃亡し、1550年に死去した。

義稙は、室町幕府の存続に貢献した将軍であった。しかし、義稙の将軍在任中は、細川氏との対立が続き、幕府の権威は十分に回復されなかった。義稙の晩年は、細川氏との対立に疲弊して、苦難の連続であった。

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