足利義持 – 室町幕府4代将軍

足利義持 – 室町幕府4代将軍

足利義持の生涯

足利義持の生涯

-足利義持の生涯-

-出生と幼少期-

足利義持は、室町幕府3代将軍足利義満の長男として、応永5年(1398年)に京都で生まれた。生母は勧修寺満仲の娘である日野康子。幼名は千寿丸。応永8年(1401年)、父・義満が突然出家し、祖父・足利義詮の死も重なって、わずか4歳で家督を相続し、第4代将軍となった。

-将軍就任と初期の政策-

将軍就任当初は、父・義満の威光を背景に、幕府の権威は揺るぎなかった。しかし、応永10年(1403年)に発生した明徳の乱を鎮圧したことで、実権を握るようになる。明徳の乱は、足利義満が没した直後に、叔父の足利満兼が将軍に就任したことに不満を持った、美濃守護代・土岐康行が挙兵した反乱である。義持は、土岐康行を討ち取って乱を鎮圧し、幕府の権威を回復した。

-応永の乱-

応永の乱は、応永23年(1416年)に発生した、鎌倉公方・足利持氏による反乱である。持氏は、将軍・義持の政策に不満を持ち、挙兵した。持氏は、一時的に鎌倉を占拠したが、義持の軍勢に敗れて降伏した。この乱により、鎌倉公方家は弱体化し、幕府の権威がさらに高まった。

-日明貿易の再開-

足利義持は、日明貿易の再開にも取り組んだ。日明貿易は、鎌倉時代末期に中断していたが、義持は明に使者を送って交渉し、永享6年(1434年)に再開に成功した。日明貿易の再開は、日本に莫大な利益をもたらし、経済の発展に貢献した。

-晩年と死-

足利義持は、将軍在職中に、応永の乱や日明貿易の再開など、数々の功績を挙げた。しかし、晩年は病に悩まされ、永享10年(1438年)に41歳で死去した。

-足利義持の評価-

足利義持は、室町幕府4代将軍として、幕府の権威を回復し、日明貿易を再開するなど、数々の功績を挙げた。しかし、晩年は病に悩まされ、在職中に死去した。義持の死後、室町幕府は急速に衰退し、応仁の乱へとつながっていく。

足利義持の政治

足利義持の政治

足利義持の政治

足利義持は、室町幕府4代将軍です。1394年に3代将軍である足利義満の死を受けて、17歳で将軍職を継ぎました。義持の時代は、幕府の権威が衰退し、守護大名や土豪が力を強めていった時期です。義持は、幕府の権威回復と守護大名や土豪の抑制を目指して、さまざまな政策を打ち出しました。

義持が最初に行った政策は、守護大名や土豪の勢力を弱めるための「守護大名・土豪の削減」です。義持は、守護大名や土豪の所領を没収したり、守護大名の権限を制限したりすることで、彼らの勢力を弱めました。また、義持は「守護大名による管領就任の禁止」も行い、守護大名による幕府の中枢への介入を防ぎました。

義持はまた、幕府の権威回復のために「将軍親政」を推進しました。義持は、将軍自らが政務を執り、守護大名や土豪に依存しない政治を行いました。また、義持は「管領制度の強化」も行い、管領の権限を拡大して、守護大名や土豪への抑え込みを強化しました。

義持はさらに、経済政策として「銭貨の発行」を行いました。義持は、永楽銭という銭貨を発行し、流通を促進しました。永楽銭の発行は、経済の活性化に貢献し、幕府の財政収入の増加につながりました。

義持の政治は、守護大名や土豪の勢力を弱め、幕府の権威を回復するという一定の成果を上げました。しかし、義持の政策は、守護大名や土豪の反発を招き、幕府の権威は再び衰退することになります。

足利義持の死

足利義持の死

-足利義持の死-

足利義持は、室町幕府4代将軍。父は3代将軍足利義満、母は日野康子。

応永22年(1415年)1月19日、義持は突然死した。死因は不明だが、病死説、毒殺説、暗殺説など諸説ある。

義持の死後、室町幕府は混乱に陥った。義持には男子がなかったため、後継者は弟の足利義嗣が継いだが、義嗣はわずか3ヶ月で死去した。

その後、義持の遺児である義量と、義持の弟である足利義教が将軍位を争ったが、最終的には義教が勝利し、室町幕府6代将軍となった。

義持の死は、室町幕府の衰退を加速させた。義持は父である義満と同様に有能な将軍であり、室町幕府の権威を維持することに成功していたが、義持の死後、室町幕府は急速に衰退していった。

義持の死は、室町時代中期における重要な事件であり、日本の歴史に大きな影響を与えた。

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