~北前船を切り拓いた江戸時代前期の豪商~北風彦太郎

~北前船を切り拓いた江戸時代前期の豪商~北風彦太郎

寛永の米相場で大儲け

寛永の米相場で大儲け

寛永の米相場で大儲け

北風彦太郎は、寛永の米相場で大儲けをしたことで知られています。寛永の米相場は、1630年に発生した米価の暴騰・暴落事件です。この事件は、米作の不作や、江戸幕府の政策などが原因で発生しました。

彦太郎は、この米相場の混乱に乗じて、米を買い占め、高値で売り抜いて大儲けしました。彦太郎は、この利益を元手に、廻船業や両替商などを経営し、財を成しました。

彦太郎の大儲けは、江戸幕府の政策に助けられた面もあります。江戸幕府は、米価の安定を図るために、米の流通を制限し、米価を一定の範囲内に抑える政策を実施していました。この政策により、米の価格が暴騰する可能性が高まり、彦太郎のような米を買い占める商人が利益を上げやすくなりました。

寛永の米相場は、彦太郎だけでなく、他の商人や農民にも大きな影響を与えました。この事件をきっかけに、米価の安定を図るための政策が強化され、米の流通がより厳しく管理されるようになりました。また、米価の暴騰・暴落によって、多くの農民が貧困に陥りました。

寛永の米相場は、江戸時代の経済に大きな影響を与えた事件でした。この事件は、彦太郎のような商人に大きな利益をもたらしましたが、一方で、多くの農民を貧困に陥れました。

淀屋今菴を助け加賀金沢藩の米を大坂に回送

淀屋今菴を助け加賀金沢藩の米を大坂に回送

-淀屋今菴を助け加賀金沢藩の米を大坂に回送-

北前船の祖と呼ばれた北風彦太郎は、淀屋今菴の窮地を救うべく、加賀金沢藩の米を大坂に回送した。

今菴は、江戸時代初期に活躍した豪商で、京都の伏見に拠点を置いて米取引を行っていた。しかし、寛永14年(1637)に起こった島原の乱の際に、幕府に多額の資金を貸し付けたため、資金繰りに窮するようになった。

彦太郎は、今菴の窮地を知り、加賀金沢藩の米を大坂に回送することを決意した。金沢藩は、越後から大量の米を仕入れており、その米を大坂に販売すれば、今菴の資金繰りを助けることができると思ったのである。

彦太郎は、金沢藩の藩主である前田利常の許可を得て、加賀から大坂まで米を運ぶ船団を編成した。船団は、寛永15年(1638)に出航し、無事に大坂に到着した。彦太郎が運んだ米は、大坂で高値で販売され、今菴の資金繰りを助けることができた。

彦太郎の行動は、今菴だけでなく、加賀金沢藩にも利益をもたらした。加賀金沢藩は、米を大坂で高値で販売することで、藩の財政を改善することができた。また、彦太郎が運んだ米は、大坂の食糧事情を安定させるのに役立った。

彦太郎の行動は、江戸時代前期の豪商の活躍の一例である。豪商たちは、資金力と人脈を駆使して、さまざまな事業を展開し、経済の発展に貢献した。

西廻り航路を開き北前船の基礎を築く

西廻り航路を開き北前船の基礎を築く

西廻り航路を開き北前船の基礎を築く

北風彦太郎は、西廻り航路を開き、北前船の基礎を築いたことで知られる江戸時代前期の豪商です。

彦太郎は、1582年、越前国敦賀(現在の福井県敦賀市)の船主の家に生まれました。若い頃から商才を発揮し、敦賀で廻船業を営んでいました。

1603年、徳川家康が江戸に幕府を開くと、彦太郎は江戸と敦賀の間を結ぶ航路を開設しました。これが、後に西廻り航路と呼ばれる航路です。

西廻り航路は、瀬戸内海や日本海を経由して江戸と敦賀を結ぶ航路で、従来の航路よりもはるかに短く、時間もかからず、費用も安価でした。そのため、彦太郎の航路は、瞬く間に多くの商人に利用されるようになり、彦太郎は巨万の富を築きました。

1615年、彦太郎は、江戸幕府から朱印船貿易の許可を得ました。朱印船貿易とは、朱印状と呼ばれる許可証を得た船が、海外との貿易を行うことができる制度です。彦太郎は、朱印船貿易を利用して、東南アジアや中国との貿易を行い、さらに富を増やしました。

彦太郎は、1622年に亡くなりましたが、彼の開いた西廻り航路は、その後も長く利用され続け、北前船の繁栄に大きく貢献しました。

なお、彦太郎の功績を称えて、敦賀市には「北前船主 北風彦太郎の像」が建てられています。

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