「徳大寺実定」

「徳大寺実定」

徳大寺実定の生涯

徳大寺実定の生涯

「徳大寺実定の生涯」

徳大寺実定は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。村上源氏の流れを汲み、右大臣・徳大寺公能の子として誕生しました。

1179年、蔵人となり、1181年には左近衛権少将に任じられました。1183年、平家打倒を掲げる源頼朝が挙兵すると、頼朝に与して源氏方の武将として戦いました。1185年に平家が滅亡すると、頼朝の推挙により右近衛中将に任じられ、その後、権中納言、大納言を歴任しました。

1192年、頼朝の死後、幕府の権力は十三人の合議制に移行しましたが、実定は合議制を主導する立場にありました。しかし、1199年に頼朝の弟・源義経が暗殺されると、実定は義経を支持していたとして幕府から追放されました。

1203年、実定は幕府に赦され、再び政界に復帰しました。1205年には右大臣に任じられ、1211年には内大臣に昇進しました。1218年、承久の乱が勃発すると、幕府軍に加わって乱を鎮圧しました。戦後、実定は左大臣に任じられ、幕府の最高実力者として権勢を振るいました。

1221年、実定は72歳で死去しました。公家としては異例の長命であり、その生涯は波乱に満ちたものでした。実定は、平家打倒、源氏政権の樹立、承久の乱の鎮圧など、日本の歴史の転換期に活躍した人物であり、その生涯は日本の歴史を知る上で欠かせない存在となっています。

徳大寺実定の功績

徳大寺実定の功績

-徳大寺実定の功績-

– -律令制の完成- 徳大寺実定は、律令制の完成に貢献しました。彼は、大宝律令の編纂に携わり、また、養老律令の編纂にも参加しました。律令制は、日本の国家運営の基本的な枠組みであり、徳大寺実定の貢献は、日本の国家体制の確立に大きく寄与しました。

– -遣唐使の派遣- 徳大寺実定は、遣唐使の派遣にも貢献しました。彼は、遣唐使の副使として、唐に派遣されました。遣唐使は、唐の文化や制度を日本に伝える役割を担っており、徳大寺実定は、中国の文化や制度を日本に紹介することに貢献しました。

– -仏教の興隆- 徳大寺実定は、仏教の興隆にも貢献しました。彼は、法隆寺の建立に尽力し、また、東大寺の建立にも貢献しました。奈良時代の仏教は、国家権力と深く結びついており、徳大寺実定の貢献は、国家の保護を受けた仏教の発展に大きく寄与しました。

– -政治的安定- 徳大寺実定は、政治的安定にも貢献しました。彼は、中臣鎌足と協力して、藤原氏の政権確立に貢献しました。藤原氏の政権は、長期間にわたって続き、日本の政治的安定に大きく寄与しました。

徳大寺実定の和歌

徳大寺実定の和歌

-徳大寺実定の和歌-

徳大寺実定は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家勧修寺流徳大寺家の祖。正二位大納言贈右大臣。歌人は『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』などに107首が入集。

* -和歌における特徴-

徳大寺実定の和歌の特徴は、典雅で落ち着きのある作風である。また、自然の美しさを詠んだ歌が多く、四季折々の移ろいを感じることができる。

* -代表的な和歌-

「春」

「霞立つ野辺の若草つみかさねむ枕に置くは春なればこそ」

「夏」

「夏山にうつづら衣かへてこそ風をすずしく通はすと思へ」

「秋」

「秋風の吹きくる山の木々の葉もみぢにぞなる色見えにけり」

「冬」

「雪降れば庭の梅が枝もゆるがずば花の重さに折れなんと思ふ」

* -徳大寺実定の和歌の評価-

徳大寺実定の和歌は、その典雅な作風と自然の美しさを詠んだ歌が多く、平安時代後期の歌人の中でも高く評価されている。また、彼の歌は藤原俊成や後鳥羽院など、後の時代の歌人にも大きな影響を与えた。

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