人名辞典-「恵萼」

人名辞典-「恵萼」

恵萼の生涯

恵萼の生涯

-恵萼の生涯-

恵萼(えかく)は、平安時代初期の公卿。桓武天皇の第二皇子。母は坂上田村麻呂の娘の藤原春津。幼名は竜宮御子。

天長10年(833年)に従四位下、翌年(834年)に従三位に叙される。承和2年(835年)に仁明天皇が崩御すると、皇太子恒貞親王(文徳天皇)が践祚した。このとき、恵萼は皇太子に擬せられたが、仁明天皇・文徳天皇の母が藤原良房の娘であることを理由に良房が反対し、文徳天皇の践祚となった。

承和12年(845年)に正三位、承和14年(847年)に大納言に昇進し、承和15年(848年)には権中納言を兼任した。嘉祥3年(850年)に右大臣に任じられ、仁寿3年(853年)には左大臣に昇進した。

斉衡2年(855年)に藤原良房が左大臣を辞任すると、恵萼は右大臣に任じられた。翌年(856年)には太政大臣に昇進した。

貞観3年(861年)に病のため出家し、法名を弘覚とした。貞観6年(864年)に薨去。享年50。

恵萼は、聡明で学問にも優れていた。また、和歌にも長け、多くの和歌を残している。代表的な和歌として、「春霞たなびきにほふ山陰の石間を分く水の音かな」などが挙げられる。

恵萼は、平安時代初期の政界で重要な役割を果たした。また、和歌にも長け、多くの和歌を残している。

恵萼の功績

恵萼の功績

恵萼の功績

平城天皇の時代、延暦24年(805)に遣唐使が唐の首都・長安に到着したとき、使節団の副使・大使・判官らは、唐の朝廷に参内して、皇帝に謁見する栄誉に浴した。そのとき、副使・大伴宿禰家持と大使・佐伯宿禰今毛人は、それぞれ唐の皇帝から直接「恵萼」の名を賜った。この「恵萼」とは、唐において広まっている郁金香の茎を、湯で煮て干した漢方薬のことである。日本において「恵萼」という漢方薬は、それまで知られておらず、大伴家持と佐伯今毛人が、唐の皇帝から「恵萼」を賜ったことは、日本と唐との関係の深さを如実に示しているといってよい。

恵萼の効能は、気管支炎・喘息・せきなどの呼吸器系の疾病や、消化器系の疾病を治すのに、大変優れているといわれており、中国においては、唐の時代から、漢方薬として広く用いられていた。大伴家持と佐伯今毛人が、唐の皇帝から「恵萼」を賜ったことは、単に個人的な栄誉にとどまらず、日本において、恵萼という漢方薬の効能を、初めて知らしめることにもなった。

恵萼という漢方薬は、その後、平安時代から鎌倉時代にかけて、日本において、広く用いられるようになり、人々の健康に大いに貢献した。そして、現代に至るまで、恵萼は、日本の漢方薬として、変わらずに用いられ続けている。

恵萼の功績は、単に漢方薬として人々の健康に貢献したことだけではない。恵萼は、日本と唐との文化交流の架け橋となったという意味でも、大きな功績を残した。恵萼は、唐の皇帝から大伴家持と佐伯今毛人に賜られたことをきっかけに、日本に伝わった。そして、日本において、恵萼という漢方薬の効能が知られるようになったことで、日本と唐との文化交流が、より一層深まっていったのである。

恵萼と補陀洛山寺

恵萼と補陀洛山寺

-恵萼と補陀洛山寺-

恵萼は、平安時代の天台宗の僧侶である。比叡山延暦寺の僧侶であったが、その後、紀伊国の補陀洛山寺に住み、同寺の中興の祖となった。恵萼は、補陀洛山寺に多くの堂塔を建立し、同寺を天台宗の重要な拠点とした。

恵萼が補陀洛山寺に住み始めたのは、平安時代中期の康和元年(1099年)のことである。恵萼は、補陀洛山寺が荒廃していることを知り、同寺を再興することを決意した。恵萼は、まず、補陀洛山寺の境内に観音堂を建立した。観音堂には、恵萼が自ら彫った十一面観音菩薩像が安置された。その後、恵萼は、補陀洛山寺の境内に多くの堂塔を建立した。恵萼が建立した堂塔には、本堂、三重塔、鐘楼、経蔵などがある。

恵萼は、補陀洛山寺の住職として、同寺の僧侶たちを指導した。恵萼は、僧侶たちに、仏教の教えを説き、修法を指導した。恵萼の指導を受けた僧侶たちは、いずれも優れた僧侶となった。恵萼は、補陀洛山寺を天台宗の重要な拠点に育て上げた。

恵萼は、承安3年(1173年)に亡くなった。恵萼の死後、補陀洛山寺は、恵萼の弟子たちが引き継いだ。恵萼の弟子たちは、恵萼の遺志を継いで、補陀洛山寺をさらに発展させた。補陀洛山寺は、現在でも、天台宗の重要な拠点として、多くの人々が参拝に訪れる。

恵萼は、補陀洛山寺の中興の祖として、現在でも同寺で祀られている。恵萼の命日である7月16日には、補陀洛山寺で恵萼の供養が行われる。

タイトルとURLをコピーしました