太田新之允-江戸時代前期の砲術家

太田新之允-江戸時代前期の砲術家

岸和田流砲術の達人

岸和田流砲術の達人

-岸和田流砲術の達人-

太田新之允は、江戸時代前期の砲術家です。岸和田流砲術の開祖であり、その弟子たちによって岸和田流は全国に広まりました。

新之允は、1591年に河内国岸和田城下で生まれました。幼い頃から砲術に興味を持ち、16歳で江戸に出て砲術を学びました。その後、岸和田に帰って砲術を教え始め、やがて岸和田藩の砲術指南役となりました。

新之允の砲術は、実戦的で効果的でした。また、砲術の理論についても研究しており、著書『砲術新書』は砲術の古典として知られています。

岸和田流砲術は、砲を据え付けて撃つのではなく、移動しながら撃つという特徴があります。これにより、敵の砲撃を避けながら攻撃することができました。また、岸和田流砲術では、砲の射程を延ばすために砲身の中に火薬を詰め込んで撃つという方法をとっていました。これは、当時の砲術としては画期的なものでした。

新之允の弟子たちには、伊賀流砲術の開祖である伊賀範成や、長州藩の砲術指南役を務めた長州茂兵衛などがいます。岸和田流砲術は、これらの弟子たちによって全国に広まり、幕末まで日本の砲術界をリードしました。

新之允は、1667年に77歳で亡くなりました。

水戸藩に仕える

水戸藩に仕える

水戸藩に仕える

太田新之允は、水戸藩初代藩主徳川頼房に仕えました。頼房は、徳川家康の三男であり、水戸藩の礎を築いた人物です。新之允は、頼房の側近として仕え、その軍事顧問を務めました。また、新之允は、頼房の命により、水戸藩の砲術隊を組織しました。

新之允が組織した砲術隊は、水戸藩の軍備強化に大きな役割を果たしました。砲術隊は、鉄砲や大砲を装備しており、当時の日本においては最先端の軍事技術を有していました。また、新之允は、砲術隊の訓練に力を入れており、水戸藩の砲術隊は、日本でも有数の精鋭部隊として知られるようになりました。

新之允は、水戸藩の砲術隊を組織しただけでなく、砲術に関する著作も残しています。新之允の著作は、砲術の歴史や理論、砲術の技術などについて詳しく書かれており、日本における砲術の発展に大きな影響を与えました。

太田新之允は、水戸藩に仕えて砲術の発展に貢献した砲術家です。新之允が組織した砲術隊は、水戸藩の軍備強化に大きな役割を果たし、新之允の著作は、日本における砲術の発展に大きな影響を与えました。

佐倉出身

佐倉出身

佐倉出身

太田新之允は、寛永12年(1635年)、下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市)に生まれました。父は佐倉藩の砲術師範を務めた太田新右衛門、母は佐倉藩の重臣の娘でした。新之允は幼少の頃から砲術の才能を発揮し、15歳のときに父から砲術の免許皆伝を受けました。

その後、新之允は江戸に出て、砲術の大家である小堀政次に師事しました。政次は、新之允の才能を高く評価し、熱心に砲術を教授しました。新之允もまた、政次の教えを忠実に守り、砲術の腕を磨きました。

明暦元年(1655年)、新之允は佐倉藩に帰郷し、藩の砲術師範を務めました。新之允は、藩士たちに砲術を教え、佐倉藩の砲術力を向上させました。また、新之允は、砲術に関する書物も執筆し、後世の砲術家に大きな影響を与えました。

寛文11年(1671年)、新之允は59歳で亡くなりました。新之允は、江戸時代前期を代表する砲術家の一人として知られており、その功績は現在でも高く評価されています。

タイトルとURLをコピーしました