姉小路昌家 – 室町時代公卿

姉小路昌家 – 室町時代公卿

室町期の公卿「姉小路昌家」

室町期の公卿「姉小路昌家」

-室町期の公卿「姉小路昌家」-

姉小路昌家は、室町時代の公卿です。永享5年(1433年)に生まれ、文明15年(1483年)に亡くなりました。父は姉小路実綱、母は万里小路経尹の娘です。

昌家は応永33年(1426年)に叙爵され、以降、順調に昇進を重ねていきます。永享7年(1435年)には右中弁に任じられ、その後、右大弁、左少弁を歴任しました。嘉吉元年(1441年)には参議に任じられ、以降、権中納言、権大納言を歴任しました。

昌家は、室町幕府の重臣として活躍しました。嘉吉元年(1441年)には、嘉吉の乱で暗殺された足利義教の遺児である足利義勝を奉じて、赤松満祐の乱を鎮圧しました。また、康正2年(1456年)には、畠山持国の乱を鎮圧するのに貢献しました。

昌家は、和歌を嗜み、歌集『姉小路昌家卿集』を残しています。また、書にも優れ、その書跡は現在も数多く残されています。

昌家は、文明15年(1483年)に薨去しました。享年51。法名は浄珠院殿永誉良岳。戒名は浄珠院殿永誉良岳。墓所は京都市左京区の浄土寺です。

姉小路宰相家として名声を得る

姉小路宰相家として名声を得る

-姉小路宰相家として名声を得る-

姉小路昌家は、彰考館総裁や明国との交易船・倭寇対策を担当する勘合奉行など、要職を歴任した室町時代の公卿です。 姉小路家は、桓武平氏嫡流の平高望(桓武天皇第14皇子・貞純親王の子)を祖先とする名門の公家であり、昌家自身も優れた政治家として知られていました。

昌家は、姉小路家を室町幕府の重鎮に位置づけることに成功し、姉小路宰相家として名声を得ます。姉小路家の家格は以前から高く、昌家の代には、室町幕府の将軍足利義教の側近を務め、要職を歴任したことで、さらに高まりました。姉小路家は、室町幕府の政治に大きな影響を与えるようになり、姉小路宰相家として知られるようになりました。

また、昌家は外交にも関わっており、明国との交易船・倭寇対策を担当する勘合奉行を務め、明国との貿易を盛んにしました。また、倭寇の取り締まりにも尽力し、室町幕府の権威を高めました。昌家は、室町時代の政治と外交に大きな影響を与えた人物であり、姉小路宰相家として後世に名を残しました。

姉小路宰相家の名声は、昌家の子孫である姉小路公知、姉小路公綱、姉小路尹綱が受け継ぎ、室町幕府の滅亡まで姉小路家は重きをなし続けます。

近江に逃れ死去

近江に逃れ死去

-姉小路昌家 – 室町時代公卿-

-近江に逃れ死去-

姉小路昌家(あねがい まさいえ)は、室町時代前期から中期にかけての公卿である。権大納言・姉小路家綱の子。官位は従三位・権大納言。

姉小路昌家は、嘉吉3年(1443年)に権大納言に任じられた。しかし、嘉吉の変で赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺すると、幕府を追われて近江国に逃れた。

昌家は、近江国で病に倒れ、文正元年(1466年)に死去した。享年49。

昌家には、子息がなかったため、姉小路家は断絶した。

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