大館義冬→ 南北朝時代の武士

大館義冬→ 南北朝時代の武士

大館義冬とは

大館義冬とは

-大館義冬とは-

南北朝時代の武士。官位は大和守、左中将、贈従一位。陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県)の守護大名。奥州管領。大館氏の祖。

生年については建長3年(1251年)・文永2年(1265年)との説がある(異説あり)。出身については近江国もしくは陸奥国とされる。

弘安11年(1288年)、兄の義顕が大館氏の本拠とする陸奥国大館荘を没収されたが、義冬は鎌倉幕府に庇護されて大館荘の相続を認められた。永仁5年(1297年)、奥州管領に任命される。

正安2年(1300年)、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇が即位すると、義冬は後醍醐天皇に帰順した。しかし、翌正安3年(1301年)、足利尊氏が鎌倉幕府を再興すると、義冬は尊氏に帰順した。

元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の新政を開始すると、義冬は建武の新政に参加した。しかし、翌建武4年(1334年)、足利尊氏が鎌倉幕府を再興すると、義冬は尊氏に帰順した。

建武5年(1335年)、尊氏が征夷大将軍に任命されると、義冬は大和守に任命された。翌建武6年(1336年)、義冬は尊氏の命を受けて、後醍醐天皇を南朝に追いやった。

延元3年/建武5年(1338年)、義冬は左中将に任命された。

延元4年/建武6年(1339年)、義冬は尊氏に従って九州に下り、南朝の懐良親王と戦った。

正平元年/建武3年(1346年)、義冬は尊氏に従って京都に戻り、南朝の楠木正成と戦った。

正平10年/文和2年(1353年)、義冬は63歳で死去した。

義冬は、鎌倉幕府、建武の新政、南北朝時代の3つの時代にわたって、武将として活躍した。

大館義冬の生涯

大館義冬の生涯

-大館義冬の生涯-

大館義冬(おおたちよしふゆ)は、南北朝時代の武士です。陸奥国(現在の岩手県北部)の豪族で、南朝方の武将として戦いました。

義冬は、貞和3年(1347年)に大館顕冬の嫡男として生まれました。幼少期から武芸に優れ、また学問にも通じていました。18歳の時に父が亡くなり、家督を継いで大館城の城主となりました。

建武3年(1336年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して建武の新政を開始すると、義冬は南朝方に味方しました。足利尊氏と戦うために、たびたび出陣しました。北畠顕家の軍勢と共に、室町幕府軍と戦い、数々の武功を立てました。

しかし、観応の擾乱で後醍醐天皇が崩御すると、南朝方の勢力が衰退しました。義冬も北畠顕家の軍勢と共に、各地を転戦しましたが、次第に劣勢に立たされました。

応安3年(1370年)、義冬は北畠顕家の軍勢と共に、奥州に敗走しました。そして、翌応安4年(1371年)、義冬は北畠顕家の軍勢と共に、北畠顕家が自害したことで、ついに降伏しました。

降伏後、義冬は北畠顕家の遺児である北畠満雅に仕えました。そして、満雅の死後、その子である北畠満重に仕えました。

応永23年(1416年)、義冬は70歳で亡くなりました。義冬は、南朝方の忠臣として、その一生を戦いに捧げました。

大館義冬の功績

大館義冬の功績

– 大館義冬の功績

大館義冬は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。常陸国守護大名であり、足利尊氏に従って鎌倉幕府の滅亡に貢献しました。また、南朝方の武将として北朝と戦い、南朝の復興に尽力しました。

義冬の功績としては、以下のものが挙げられます。

* 鎌倉幕府の滅亡に貢献

元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の執権北条高時の率いる軍勢が、足利尊氏が籠もる笠置城を攻撃しました。この時、義冬は尊氏に従って笠置城を守備し、幕府軍を撃退しました。この戦いで幕府軍は大きな損害を受け、鎌倉幕府の滅亡が決定づけられました。

* 南朝の復興に尽力

建武の新政が崩壊した後、義冬は南朝方の武将として北朝と戦い続けました。延元元年(1336年)、義冬は南朝の総帥である後醍醐天皇の命を受けて、常陸国に侵攻しました。義冬は幕府軍を破り、常陸国の大部分を平定しました。

* 常陸国の復興に貢献

義冬は常陸国の守護大名として、常陸国の復興に努めました。義冬は、国内の治安を維持し、農民の生活を安定させました。また、義冬は常陸国に多くの寺社を建立し、文化の発展にも貢献しました。

義冬は、鎌倉幕府の滅亡と南朝の復興に貢献した、優れた武将でした。また、義冬は常陸国の復興に努め、常陸国の人々から慕われていました。

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