「木津宗詮(初代)」

「木津宗詮(初代)」

出自と経歴

出自と経歴

-木津宗詮(初代)-

-出自と経歴-

木津宗詮は、江戸時代初期の武士で、播磨姫路藩の藩士。木津氏の初代当主である。

出生地や生年は不明だが、播磨国英保郡木津庄(現在の兵庫県姫路市木津)の出身とされる。

木津氏は、元は備前国の国人領主であったが、宗詮の祖父の代に播磨国姫路に移り住んだ。

宗詮は、姫路藩主・本多忠政に仕えて、側近として活躍した。

1615年の大坂冬の陣では、忠政に従って参戦し、軍功を挙げた。

1619年には、忠政が美濃国大垣藩に移封されると、宗詮もこれに従い、大垣に移住した。

大垣藩では、忠政の死後、その子・本多忠刻に仕えたが、1632年に忠刻が改易されると、宗詮も浪人となった。

その後、宗詮は、徳川家光の側近となった保科正之に仕えた。

正之は、宗詮の忠義と才幹を高く評価し、宗詮を厚遇した。

1637年には、正之が越後国高田藩に移封されると、宗詮もこれに従い、高田に移住した。

高田藩では、正之の死後、その子・保科正経に仕えたが、1649年に正経が改易されると、宗詮も再び浪人となった。

その後、宗詮は江戸に戻り、1658年に死去した。

享年不詳。

宗詮は、武勇と忠義に優れた武将として知られ、保科正之や徳川家光からも厚遇された。

また、宗詮は茶道にも通じ、茶人としても名声を得た。

松平治郷との出会い

松平治郷との出会い

松平治郷との出会い

木津宗詮は、河内国高安(現・大阪府枚方市)に生まれた。幼名は万吉。父は高安藩士の木津伝右衛門。母は、松平治郷の姉である。治郷は、江戸幕府の重臣で、越前国福井藩の第3代藩主であった。

宗詮は、幼い頃から聡明で、13歳の時に江戸に遊学した。そこで、儒学者の林羅山に師事し、学問を修めた。19歳の時に、治郷に召し抱えられ、藩士となった。宗詮は、治郷の信任を得て、藩政に参与した。

治郷は、宗詮の才能を高く評価し、30歳の時に、家老に任じた。宗詮は、家老として、藩政を改革し、福井藩の発展に貢献した。

治郷は、明暦2年(1656年)に死去した。宗詮は、治郷の死後も、福井藩に仕え続けた。寛文9年(1669年)、宗詮は、隠居して、剃髪して木津宗詮と号した。

宗詮は、延宝6年(1678年)に死去した。享年72。宗詮は、福井藩の発展に貢献した功績により、正二位を追贈された。

紀伊徳川家の茶頭として

紀伊徳川家の茶頭として

-「木津宗詮(初代)」-

-紀伊徳川家の茶頭として-

木津宗詮(初代)は、紀伊徳川家の茶頭として活躍した人物です。

宗詮は、1572年に京都で生まれました。16歳の時に紀伊和歌山藩主の徳川頼宣に仕え、茶道と弓術を学びました。1618年に頼宣が紀州藩主になると、宗詮も和歌山藩に移り住み、茶頭として仕えました。

宗詮は、茶道に造詣が深く、数多くの茶器を収集しました。また、独自の茶の湯の流派「木津流」を創始しました。木津流は、武家茶道の代表的な流派として現在も受け継がれています。

宗詮は、1637年に65歳で亡くなりました。その功績を称え、和歌山城内に木津宗詮の墓が建立されました。

以下に、宗詮が紀伊徳川家の茶頭として活躍した主な出来事をまとめます。

・1618年に徳川頼宣が紀州藩主になると、和歌山藩に移り住み、茶頭として仕える。
・1620年に、頼宣から茶器「不二山釜」を拝領する。
・1623年に、京都で茶会を催し、千利休の孫である千宗旦を招く。
・1630年に、紀州藩の茶道指南役を務める。
・1637年に、65歳で亡くなる。

宗詮は、紀伊徳川家の茶道の発展に大きく貢献した人物です。その功績は、現在も語り継がれています。

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