紀家守-奈良時代の公卿

紀家守-奈良時代の公卿

紀家守の生涯

紀家守の生涯

-# 紀家守の生涯

紀家守(紀家治)は、奈良時代の公卿です。天平元年(729年)に参議に任ぜられ、天平10年(738年)に中納言に昇進しました。天平14年(742年)には従三位に叙され、天平17年(745年)には大納言に昇進しました。天平21年(749年)には右大臣に任ぜられ、天平勝宝7年(755年)には内大臣に昇進しました。

紀家守は、藤原不比等、光仁天皇の祖父の祖父です。代々宮中に出仕して大伴氏と権力を競っていました。聖武天皇・孝謙天皇・淳仁天皇のとき、造東大寺司長官として仏教振興のための有力者となりました。九州大宰師を歴任して、その後昇殿し参議となってから、中納言、大納言、右大臣と昇進しました。

紀家守は、内臣(高位の官)に任ぜられ、弓削精弓、橘奈良麻呂らと組んで橘諸兄を失脚に追い込み、宝亀2年(771年)12月18日右大臣に任命されました。宝亀4年(773)外祖父の橘諸兄の謀叛に巻き込まれて、位階・官職を剥奪されますが、その後、赦されて復権しました。晩年は穏健な政治に努め、宝亀11年(780年)に薨去しました。

紀家守は、政治家として優れた才能を発揮するとともに、学問や芸術にも通じた教養人でした。彼は、多くの和歌を詠み、その中には「万葉集」に収録されている作品もあります。また、彼は、書道にも優れており、多くの書を残しています。

紀家守は、奈良時代の公卿として、政治・文化の両面で大きな功績を残した人物です。

紀家守と平城京

紀家守と平城京

紀家守と平城京

紀家守(733-806)は、奈良時代の公卿であり、桓武天皇の下で右大臣を務めました。彼は平城京の造営に大きく関与し、その後の平城京の発展に貢献しました。

家守は、天平12年(740)に参議に任命され、天平19年(747)には中納言に就任しました。天平勝宝4年(752)には右大臣に昇進し、天平宝字2年(758)まで務めました。家守は、右大臣として平城京の造営を主導し、天平21年(749)に平城京が完成しました。

平城京は、奈良盆地の北端に位置し、東西約4.5km、南北約5.2kmの矩形をしています。平城京は、都の真ん中に位置する朱雀大路を境に、左京と右京の二つの京に分かれています。左京には、天皇が住む内裏や、太政官などの官庁が置かれ、右京には、貴族や庶民の住む住宅が置かれました。

平城京は、中国の唐の都である長安をモデルにして造営されたと言われています。平城京は、長安と同じく、東西と南北の道路が直交する碁盤の目のように区画されており、各区画には、貴族や庶民の住む住宅が建ち並んでいました。

平城京は、奈良時代の政治・経済・文化の中心地として栄えました。平城京には、多くの貴族や庶民が住み、様々な産業が営まれていました。また、平城京には、東大寺や興福寺などの壮大な寺院が建立され、仏教が盛んでした。

しかし、平城京は、天平20年(748)に発生した長屋王の変や、天平勝宝9年(757)に発生した橘奈良麻呂の変などの政変により、衰退していきました。桓武天皇は、784年に平城京から長岡京に遷都し、その後平安京に遷都しました。平城京は、平安京に遷都された後も、引き続き利用され続けましたが、平安時代中期以降は衰退していき、現在では跡地の一部が残るのみとなっています。

タイトルとURLをコピーしました