六角満綱-室町時代の武将

六角満綱-室町時代の武将

六角満綱の生涯

六角満綱の生涯

六角満綱の生涯

六角満綱は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。六角氏第10代当主。通称は左京大夫。

1498年(明応7年)、六角定頼の子として誕生。元服する際に当時の将軍・足利義材より「満」の偏諱を受けて「満綱」と名乗る。

1523年(大永3年)、父・定頼が死去すると家督を継いで六角氏の当主となる。以後、近江国を中心に勢力を拡大し、1530年(享禄3年)には山城国守護に任じられる。

1532年(天文元年)、細川晴元と対立し、観音寺城の戦いで敗北する。しかし、すぐに反撃して晴元を近江から駆逐することに成功する。

その後も満綱は周辺諸国と戦いを続け、近江の領国を固めた。また、明応の政変で失脚した足利義稙の復権にも尽力し、1546年(天文15年)に義稙を再び将軍に就けることに成功する。

1548年(天文17年)、満綱は死去。享年51。

満綱は、戦国乱世にあって近江の領国を守り抜き、六角氏の勢力拡大に努めた名将であった。また、将軍・足利義稙の復権にも尽力し、室町幕府の存続に貢献した人物である。

永享年間の山門騒動

永享年間の山門騒動

-永享年間の山門騒動-

永享年間の山門騒動とは、室町時代中期に発生した、京都の延暦寺と室町幕府との間の紛争である。この騒動は、延暦寺の僧侶たちが、幕府の政策に反発して蜂起したことに端を発し、最終的には、幕府軍が延暦寺を焼き討ちにして鎮圧するという事態に発展した。

騒動のきっかけとなったのは、永享10年(1438年)に、幕府が延暦寺に対して、寺領の削減と僧兵の解散を命じたことである。延暦寺は、この命令に反発して、幕府軍と交戦状態に入った。騒動は、数年にわたって続き、最終的には、永享13年(1441年)に、幕府軍が延暦寺を焼き討ちにして鎮圧した。

永享年間の山門騒動は、室町幕府と延暦寺との関係が、いかに緊張したものだったかということを示している。また、この騒動は、室町幕府が、京都の治安を維持するために、武力に頼らざるを得なかったということも示している。

-騒動の背景-

永享年間の山門騒動の背景には、室町幕府と延暦寺との間の、長年にわたる対立があった。延暦寺は、日本仏教の総本山であり、幕府に対しても大きな影響力を持っていた。しかし、室町幕府は、延暦寺の権力を抑えようとして、寺領の削減や僧兵の解散などの政策を打ち出した。これが、延暦寺の反発を招き、騒動が勃発した。

-騒動の経過-

永享10年(1438年)、幕府が延暦寺に対して、寺領の削減と僧兵の解散を命じた。延暦寺は、この命令に反発して、幕府軍と交戦状態に入った。騒動は、数年にわたって続き、最終的には、永享13年(1441年)に、幕府軍が延暦寺を焼き討ちにして鎮圧した。

-騒動の影響-

永享年間の山門騒動は、室町幕府と延暦寺の関係が、いかに緊張したものだったかということを示している。また、この騒動は、室町幕府が、京都の治安を維持するために、武力に頼らざるを得なかったということも示している。

騒動の結果、延暦寺の権力は大きく低下した。また、幕府は、京都の治安を維持するために、新たな政策を打ち出した。これらの政策により、室町幕府は、京都の治安を回復し、延暦寺の権力を抑えることに成功した。

出家と自刃

出家と自刃

-出家と自刃-

六角満綱は、永享年間(1429-1441年)に六角高頼の嫡男として近江国に生まれた。応永35年(1428年)の室町幕府による六角氏の討伐を契機に、永享の乱で室町幕府側に味方し、六角氏の内紛を収めた。

満綱は永享11年(1439年)、室町幕府第6代将軍足利義教の命により、近江守護に任命された。その後、近江における六角氏の勢力を拡大し、京都にも出仕して幕政に参与するようになった。

しかし、満綱は嘉吉元年(1441年)に起こった嘉吉の変により、足利義教が暗殺された際に、その責任を問われて近江守護を解任された。その後、満綱は出家して浄土真宗に帰依し、近江国蒲生郡(現・滋賀県蒲生郡)の安楽寺に隠棲した。

嘉吉2年(1442年)、満綱は足利義教の弟である足利義持の命により、近江守護に再任された。しかし、満綱は嘉吉3年(1443年)に、近江国で起こった土一揆(農民一揆)を鎮圧できずに、自害して果てた。

満綱は、室町時代の武将として、近江における六角氏の勢力を拡大し、京都にも出仕して幕政に参与するなど、活躍した。しかし、嘉吉の変により失脚し、出家して隠棲した。その後、土一揆を鎮圧できずに自害して果てた。

タイトルとURLをコピーしました