矢橋賢吉 – 明治・大正時代の官吏

矢橋賢吉 – 明治・大正時代の官吏

内務省,大蔵省の技師をへて大蔵省営繕管財局工務部長に

内務省,大蔵省の技師をへて大蔵省営繕管財局工務部長に

-内務省,大蔵省の技師をへて大蔵省営繕管財局工務部長に-

矢橋賢吉氏は、明治・大正時代の官吏である。内務省、大蔵省の技師を経て、大蔵省営繕管財局工務部長に任命された。

矢橋賢吉氏は、明治元年(1868年)に生まれた。東京帝国大学で土木工学を学び、卒業後は内務省に入省した。内務省では、土木局の技師として道路や橋梁の建設に携わった。

その後、大蔵省に転任し、営繕管財局の技師として、国の建物の建設や管理を担当した。大正8年(1919年)に、大蔵省営繕管財局工務部長に任命された。

矢橋賢吉氏は、工務部長として、多くの重要な建物の建設を指揮した。主なものとしては、東京駅丸の内駅舎、東京帝室博物館、東京府庁舎、大阪市庁舎などがある。

矢橋賢吉氏は、大正12年(1923年)に退官した。退官後は、土木学会の会長を務め、日本の土木工学の発展に貢献した。昭和22年(1947年)に死去した。

東京勧業博覧会審査官などを務め、国会議事堂建設にも参画

東京勧業博覧会審査官などを務め、国会議事堂建設にも参画

-矢橋賢吉 – 明治・大正時代の官吏-

矢橋賢吉は、明治・大正時代を通じて活躍した官吏です。明治4年(1871年)に肥後国熊本(現熊本県熊本市)に生まれ、明治22年(1889年)に東京帝国大学工科大学を卒業しました。その後、内務省に入省し、土木畑を歩み、明治27年(1894年)に東京勧業博覧会審査官に任命されました。同博覧会では、土木・建築部門の審査を担当し、日本の近代化に貢献しました。

また、矢橋賢吉は、国会議事堂建設にも参画しました。明治33年(1900年)に国会議事堂建設委員会が設立されると、その委員に任命され、設計や施工の監督に携わりました。国会議事堂は、明治38年(1905年)に竣工し、現在も日本の立法府として使用されています。

矢橋賢吉は、土木畑だけではなく、林業や農業にも精通していたため、明治40年(1907年)には農商務省林務局長官に任命されました。また、大正元年(1912年)には、東京市水道局長に就任し、東京の水道事業の発展に貢献しました。

矢橋賢吉は、明治・大正時代を通じて、土木、林業、農業など、日本の近代化に貢献した官吏です。その業績は、現在でも日本のインフラを支えています。

美濃で生まれ帝国大学を卒業

美濃で生まれ帝国大学を卒業

-美濃で生まれ帝国大学を卒業-

矢橋賢吉は、1876年12月11日、岐阜県の美濃郡松森村(現在の関市)に生まれた。父・矢橋敬義は、川魚商を営み、母・千代は、敬義の2番目の妻であった。賢吉には、2人の兄と2人の姉がいた。

賢吉は、1882年に、松森村の小学校に入学した。小学校卒業後は、岐阜県立岐阜中学校に進学し、1893年に卒業した。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1897年に卒業した。

東京帝国大学卒業後は、内務省に入省し、地方官吏として勤務した。1902年に、岐阜県警部に任命され、1904年には、岐阜県参事官に任命された。その後、1908年に、内務省警保局長に任命され、1912年に、内務次官に任命された。

内務次官在任中は、地方自治制の確立や社会政策の推進などに尽力した。1918年には、内務大臣に任命された。内務大臣在任中は、シベリア出兵や朝鮮独立運動の取り締まりなど、国内外の重要問題に対処した。

矢橋賢吉は、1923年に、内務大臣を辞任し、政界を引退した。その後は、日本勧業銀行総裁や東京帝国大学総長などを歴任した。そして、1939年11月23日に死去した。

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