源為義 – 平安時代後期の武将

源為義 – 平安時代後期の武将

源氏の嫡流

源氏の嫡流

-源氏の嫡流-

源為義は、源氏の嫡流、河内源氏の棟梁でした。父は源義親、母は源義忠の娘・由良御前です。幼名は駒王丸、駒王御前とも呼ばれました。

為義は、保元元年(1156年)に平清盛の娘・平時子を娶り、嫡男・頼朝をもうけました。また、平清盛の妹・平時忠の娘・平時子を娶り、次男・義朝をもうけました。

為義は、久安6年(1150年)に平清盛の挙兵に応じて上洛し、平治元年(1159年)に平治の乱で平清盛に敗北した義朝を討ちました。その後、為義は平清盛に重用され、備前国・美作国・備中国の守護に任じられました。

しかし、為義は、平清盛の専横を快く思わず、平治の乱後に平清盛の娘・平徳子と離縁しました。また、為義は、平清盛の弟・平頼盛と対立し、平治の乱後に平頼盛に攻められて敗北しました。

為義は、平治の乱後に、河内国に逃れ、平清盛の追討を避けて九州に渡りました。その後、為義は、平清盛の死後に帰京し、平氏政権の打倒を図りましたが、失敗しました。

為義は、文治3年(1186年)に、平氏政権の打倒に成功した頼朝の命令で、平氏一門とともに誅殺されました。為義の死により、源氏の嫡流は断絶しました。

保元の乱で敗北

保元の乱で敗北

-保元の乱で敗北-

源為義は、保元の乱では後白河天皇方につき、平清盛と戦いました。しかし、戦いに敗れてしまい、讃岐国に流されました。その後、六波羅探題の命令で、清盛の弟・平頼盛に殺されることになりました。

保元の乱は、藤原頼長と崇徳上皇が天皇を廃位して院政を開始しようとしたことで勃発しました。為義は、頼長と崇徳上皇に協力して戦いましたが、清盛が率いる平氏軍に敗れてしまいました。

保元の乱は、清盛が勝利を収めて院政の権力を確固たるものにし、為義は流罪となり、その後殺されることになりました。この乱は、平氏政権の成立と源氏の衰退の始まりとなりました。

為義は、保元の乱で敗れた後、讃岐国に流されました。讃岐国は、現在の香川県にあたり、瀬戸内海の島々からなる県です。為義は、讃岐国で6年間を過ごしました。

その間、為義は、清盛の弟・平頼盛に殺害されることになりました。頼盛は、清盛の命を受けて、讃岐国に派遣されました。頼盛は、為義を捕らえて、京都に連行しました。そして、為義は、京都で処刑されました。

為義の死は、源氏の衰退の始まりとなりました。為義は、源氏の棟梁であり、多くの武将を擁していました。しかし、保元の乱で敗れたことで、源氏の勢力は大きく弱まってしまいました。

為義の死後、源氏は再起を図ろうとしましたが、平氏政権は強固であり、源氏は平氏を倒すことができませんでした。源氏は、その後、鎌倉幕府を開くことになりますが、それは、為義の死から30年後のことです。

処刑

処刑

-処刑-

源為義は、保元2年(1157年)に平治の乱で敗れ、平清盛に捕らえられました。そして、同年12月29日、河内の国青墓宿(現在の大阪府八尾市)で斬首されました。享年48歳でした。

源為義の処刑は、武士が権力を掌握していく過程で、源氏と平氏の対立が激化していくことの象徴的な出来事でした。また、源為義の死は、源氏嫡流の衰退と、平氏政権の確立を決定づける出来事でもありました。

源為義の処刑後、源氏の残党は各地に逃れ、平氏打倒の機会を伺いました。そして、源頼朝が挙兵した源平合戦を経て、源氏は平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開きました。

源為義の処刑は、平安時代から鎌倉時代への時代の移り変わりを象徴する出来事であり、日本の歴史上において重要な意味を持っています。

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