青山忠俊(1578~1643)

青山忠俊(1578~1643)

青山忠俊の家系と生い立ち

青山忠俊の家系と生い立ち

-青山忠俊の家系と生い立ち-

青山忠俊は、1578年に甲斐国(現在の山梨県)で生まれました。父は徳川四天王の一人である青山忠成、母は小笠原長忠の娘です。忠俊は幼い頃から武芸に優れ、16歳の時に徳川家康に仕えました。関ヶ原の戦いでは、石田三成の軍勢と戦い、武功を上げました。

忠俊は、1603年に徳川家康が江戸幕府を開くと、旗本として仕えました。1615年の大坂夏の陣では、豊臣秀吉の軍勢と戦い、再び武功を上げました。1619年には、近江国(現在の滋賀県)の彦根藩主となり、1万石の領地を与えられました。

忠俊は、彦根藩主として、領内の開発に努めました。また、儒教を奨励し、学校を建設しました。1623年には、キリシタンの弾圧を強化するため、キリシタン奉行に任命されました。1643年に死去するまで、徳川幕府に仕えました。

忠俊は、徳川家康に仕えて以来、数々の戦いで武功を上げ、彦根藩主として領内の開発に努めました。また、キリシタンの弾圧にも尽力し、徳川幕府の安定に貢献しました。

青山忠俊の徳川家光への貢献

青山忠俊の徳川家光への貢献

青山忠俊の徳川家光への貢献

青山忠俊は、江戸時代前期の大名です。徳川家光の側近として仕え、多くの功績を残しました。その中でも、特に重要なのが、大坂城の再建と大名の統制です。

大坂城の再建
大坂城は、豊臣秀吉が築城した城です。豊臣氏が滅亡した後、徳川家が城を接収しましたが、火災で焼失してしまいました。家光は、忠俊に大坂城の再建を命じました。忠俊は、築城の名手として知られていたため、家光は忠俊にこの大役を任せたのです。

忠俊は、大坂城の再建にあたり、従来の城郭の築城方法を一新しました。従来の城郭は、石垣を積み上げて上から攻撃を防ぐ構造でしたが、忠俊は、石垣を低くして、その上に土塁を築く構造を採用しました。この構造は、攻撃を防ぐだけでなく、城内の兵士が自由に移動できるようにするものでした。

忠俊が再建した大坂城は、日本最大級の城郭となり、徳川幕府の権威を象徴する城となりました。また、大坂城の再建は、忠俊の築城の才能を世に知らしめることにもなりました。

大名の統制
家光は、忠俊に大名の統制を命じました。家光は、大名が力を持ちすぎると幕府の権威が弱まると考えていたため、大名を厳しく取り締まる必要があったのです。

忠俊は、家光の意向を汲んで、大名の統制に努めました。忠俊は、大名に参勤交代を義務付け、大名の私兵の数を制限しました。また、大名が幕府に無断で婚姻や養子縁組をすることを禁止しました。

忠俊の厳しい統制により、大名の力は弱まり、幕府の権威は強まりました。忠俊の統制は、江戸幕府の安定に大きく貢献しました。

青山忠俊は、徳川家光の側近として、大坂城の再建や大名の統制など、多くの功績を残しました。忠俊の功績は、徳川幕府の安定に大きく貢献し、徳川幕府の基礎を固めることになりました。

青山忠俊の失脚とその後

青山忠俊の失脚とその後

青山忠俊の失脚とその後

寛文10年(1670)、青山忠俊は参勤交代の際に、江戸城を無断で離れたとして、幕府から蟄居を命じられました。これは、忠俊が将軍徳川家綱の寵愛を一身に受けていたため、家綱の死後、勢力を失った忠俊に対する弾劾であったと考えられています。

忠俊は蟄居を命じられた後、下総国古河(現在の茨城県古河市)に拠点を移し、そこで亡くなりました。忠俊の死後、青山家は断絶しましたが、忠俊の功績は忘れられず、明治時代になって青山忠俊の墓所が建立されました。

青山忠俊は、江戸時代前期に活躍した武将であり、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光に仕えました。忠俊は、関東地方の治世や江戸城の築城などに功績をあげ、徳川家の譜代大名として活躍しました。

しかし、忠俊は晩年に失脚し、蟄居を命じられました。忠俊の失脚は、徳川家綱の死後、勢力を失った忠俊に対する弾劾であったと考えられています。忠俊は、蟄居を命じられた後、下総国古河(現在の茨城県古河市)に拠点を移し、そこで亡くなりました。

忠俊の死後、青山家は断絶しましたが、忠俊の功績は忘れられず、明治時代になって青山忠俊の墓所が建立されました。

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