緒方多賀雄 – 明治-大正時代の軍人

緒方多賀雄 – 明治-大正時代の軍人

軍人としての経歴

軍人としての経歴

-軍人としての経歴-

緒方多賀雄は、1868年に薩摩藩の武士の家に生まれました。1887年に陸軍士官学校を卒業し、陸軍に入隊しました。日清戦争では歩兵第23連隊の連隊長として出征し、金州の戦いに参加しました。1904年に勃発した日露戦争では、歩兵第21旅団の旅団長として出征し、遼陽会戦や奉天会戦に参加しました。1906年、少将に昇進し、歩兵第11旅団の旅団長に任命されました。1912年、中将に昇進し、第11師団の師団長に任命されました。1915年、陸軍次官に任命されました。1918年、大将に昇進し、参謀総長に任命されました。1921年、予備役に編入されました。

緒方多賀雄は、日清戦争と日露戦争の両方に参加した功績により、数多くの勲章や褒賞を授与されました。また、彼の功績を称えて、緒方多賀雄記念碑が鹿児島県志布志市に建立されました。

旅順要塞司令官時代

旅順要塞司令官時代

旅順要塞司令官時代

1904年(明治37年)2月、緒方多賀雄は旅順要塞司令官に任命された。旅順要塞は、ロシア帝国が清国から租借した旅順口に建設した要塞で、日本軍にとっては遼東半島の攻略の拠点として重要な位置を占めていた。

緒方が旅順要塞司令官に任命されたとき、旅順要塞はすでに日本軍の攻撃を受けていた。日本軍は、2月9日に旅順口に上陸し、10日には旅順要塞の攻撃を開始した。緒方は、旅順要塞の守備を指揮し、日本軍の攻撃を阻止しようとした。

しかし、緒方は日本軍の猛攻に耐えきれず、5月26日に旅順要塞を放棄した。緒方は、旅順要塞の放棄によって日本軍に大きな勝利をもたらした責任を負うことになり、6月に旅順要塞司令官を解任された。

緒方は、旅順要塞司令官を解任された後、予備役に編入された。その後、1917年(大正6年)に召集され、朝鮮総督府の軍事顧問となった。1921年(大正10年)に退職し、1928年(昭和3年)に死去した。

人物と功績

人物と功績

– 人物と功績

緒方多賀雄は、1857年(安政4年)に備中国浅口郡連島町(現在の岡山県浅口市)に生まれた。1876年(明治9年)に陸軍士官学校を卒業し、歩兵少尉に任官された。日清戦争では陸軍参謀本部員として参戦し、功績を挙げた。

1900年(明治33年)には陸軍大佐に昇進し、歩兵第14連隊長に任命された。日露戦争では同連隊長として出征し、旅順攻囲戦などで活躍した。1906年(明治39年)には陸軍少将に昇進し、歩兵第2旅団長に任命された。1918年(大正7年)には陸軍中将に昇進し、第12師団長に任命された。

1923年(大正12年)には陸軍大将に昇進し、参謀総長に就任した。陸軍士官学校長などを歴任し、1930年(昭和5年)に退役した。1935年(昭和10年)に死去した。

緒方多賀雄は、日清戦争と日露戦争で功績を挙げた軍人として知られている。また、参謀総長として陸軍の近代化に貢献した。

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