岡村簣斎 – 幕末・明治時代の儒者

岡村簣斎 – 幕末・明治時代の儒者

岡村簣斎とは

岡村簣斎とは

岡村簣斎とは

岡村簣斎(おかむら きさい、1831年(天保2年)-1898年(明治31年))は、幕末・明治時代の儒者、教育者。名は鼎、字は君錫、号は簣斎。

1831年(天保2年)、美濃国厚見郡本巣村(現在の岐阜県本巣市)に生まれる。1849年(嘉永2年)、19歳の時に江戸に出て、昌平黌に入学。佐藤一斎などの下に学び、儒学を修める。

1859年(安政6年)、昌平黌卒業後、藩校・敬慎館の教授となる。1868年(明治元年)、明治政府に出仕し、文部省の官僚となる。1870年(明治3年)、大学南校(現在の東京大学)の開校に尽力し、初代校長に就任。1873年(明治6年)、文部省を退官し、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立に参画。初代校長に就任する。

1880年(明治13年)、東京専門学校を辞任し、私塾・簣斎塾を開設。1884年(明治17年)、日本最初の私立女子専門学校である日本女子大学校(現在の日本女子大学)の創立に尽力し、初代学長に就任。1898年(明治31年)、68歳で死去。

岡村簣斎は、幕末・明治時代の日本の教育に大きな影響を与えた人物である。彼は、昌平黌や大学南校、東京専門学校、日本女子大学校などの学校の創立に尽力し、多くの人材を育成した。また、彼は、儒学を基盤とした教育を主張し、日本の近代化に貢献した。

岡村簣斎の生涯

岡村簣斎の生涯

岡村簣斎の生涯

岡村簣斎は、1825年(文政8年)1月7日、播磨国明石郡曽根(現在の兵庫県神戸市)に生まれた。幼名は忠太。父は岡村禎藏、母はゆき。岡村家は代々儒者であり、簣斎は幼い頃から漢学を学び、12歳の時に江戸に出て、昌平坂学問所に学び始めた。

1844年(天保15年)に昌平坂学問所を卒業し、藩校である藩校講所助教に任命された。1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航すると、藩命により江戸に出て、幕府の応接係を務めた。

1858年(安政5年)に藩校講所頭取に就任し、藩の教育改革に取り組んだ。1863年(文久3年)に京都に上り、公武合体運動に参加した。しかし、1864年(元治元年)に禁門の変が起こると、京都を離れて播磨に帰国した。

1868年(明治元年)に戊辰戦争が勃発すると、官軍に参加して京都に上り、明治政府に出仕した。1871年(明治4年)に文部省の官僚となり、学制の制定や教育制度の改革などに尽力した。

1879年(明治12年)に文部省を退官し、東京専門学校(現在の早稲田大学)の校長に就任した。1882年(明治15年)に東京専門学校を辞任し、隠居した。

1898年(明治31年)12月28日、東京市本郷区駒込林町(現在の東京都文京区駒込)で死去した。享年74。

岡村簣斎の功績

岡村簣斎の功績

-岡村簣斎の功績-

岡村簣斎は、幕末から明治時代にかけて活躍した儒者です。彼は、日本の近代化に大きな貢献をしたことで知られており、その功績は主に以下の3点にあります。

-1.洋学の導入と普及-

簣斎は、洋学の重要性を早くから認識しており、その導入と普及に尽力しました。彼は、1855年に長崎に設立された「精得館」で洋学を学び、その後、京都の「懐徳堂」で儒学を教授しながら、洋学の研究と普及活動を行いました。簣斎の功績により、日本の知識人は洋学を学ぶようになり、日本の近代化に大きく貢献しました。

-2.明治維新への貢献-

簣斎は、明治維新にも大きな貢献をしました。彼は、1864年に「戊辰戦争」が勃発すると、新政府軍に参加して、薩摩藩や長州藩を支援しました。また、簣斎は、新政府の政策立案にも参加し、日本の近代化に貢献しました。

-3.教育改革への貢献-

簣斎は、日本の教育改革にも貢献しました。彼は、1872年に「学制」が制定されると、文部省の幹部として、学制の施行に尽力しました。また、簣斎は、東京大学や京都大学の設立にも尽力し、日本の近代教育の発展に貢献しました。

岡村簣斎は、日本の近代化に大きな貢献をした偉大な儒者です。彼の功績は、今日でも高く評価されています。

タイトルとURLをコピーしました