朽木稙綱(3)-江戸時代中期の大名

朽木稙綱(3)-江戸時代中期の大名

朽木稙綱の生涯

朽木稙綱の生涯

朽木稙綱の生涯

朽木稙綱は、1683年、朽木為綱の長男として生まれました。1697年、父・為綱の死去により、15歳で家督を相続し、朽木家の当主となりました。若くして家督を継いだ稙綱は、儒学者・近衛基熙に師事し、学問を修めました。また、武芸にも秀でており、弓術や馬術に優れていました。

稙綱は、1703年に従五位下侍従に叙任され、1705年には若狭守に任じられました。また、この頃、幕府の老中・柳沢吉保の娘と結婚し、柳沢家の厚い庇護を受けるようになりました。

1712年、稙綱は丹波篠山藩の藩主となりました。篠山藩は、播磨国と丹波国にまたがる小藩でしたが、稙綱は藩政改革を行い、藩財政の立て直しや殖産興業に努め、藩政を安定させました。

稙綱は、1730年に若狭守を辞任し、1732年に従四位下に叙せられました。1735年には、江戸城の西の丸の留守居を命じられ、幕府の中枢でも活躍しました。

稙綱は、1747年に55歳で死去しました。家督は、長男・為永が継ぎました。稙綱は、若くして家督を継ぎ、学問や武芸に秀で、藩政改革や殖産興業にも努め、朽木家を中興に導いた名君と称されています。

朽木稙綱の人物像

朽木稙綱の人物像

朽木稙綱の人物像

朽木稙綱は、荒木村重の息子として、1571年に誕生しました。幼名は梅千代と呼ばれていました。

稙綱は、幼い頃から聡明で、武芸にも秀でていました。また、和歌や茶道をたしなむなど、文武両道の武将でした。

1582年、本能寺の変で父・村重が織田信長に謀殺されると、稙綱は織田信忠に従いました。しかし、1583年に賤ヶ岳の戦いで信忠が豊臣秀吉に敗れると、稙綱は秀吉に降伏しました。

秀吉に降伏後は、但馬国豊岡城を与えられて、豊臣政権下で活躍しました。1590年の小田原征伐でも、秀吉の軍に加わって功績を上げました。

1600年の関ヶ原の戦いでは、東軍に味方して、石田三成の軍と戦いました。戦後、所領を安堵され、但馬国出石城に移封されました。

稙綱は、出石藩主として、領内の治世に尽力しました。また、和歌や茶道を奨励して、藩内の文化の発展にも貢献しました。

稙綱は、1632年に61歳で死去しました。

稙綱は、文武両道の武将として、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した人物です。また、領内の治世や文化の発展にも貢献しました。

朽木稙綱の功績

朽木稙綱の功績

朽木稙綱の功績

1. 江戸幕府への貢献

朽木稙綱は、江戸幕府の将軍徳川家光に仕え、様々な功績を挙げました。特に、寛永16年(1639年)に起こった島原の乱では、幕府軍の一員として出陣し、大きな戦功を挙げました。また、それまで外国人との貿易が禁止されていたポルトガルやオランダとの貿易を許可するなど、幕府の外交政策にも貢献しました。

2. 朽木家の繁栄

朽木稙綱は、朽木家の繁栄にも大きく貢献しました。稙綱の代には、朽木家は越前国福井藩に加増され、100万石の大名となりました。また、稙綱は、儒教を奨励し、藩校「明倫館」を設立するなど、藩政の刷新にも力を入れました。

3. 文化への貢献

朽木稙綱は、文化にも貢献しました。稙綱は、書画を好み、自らも書画をたしなみ、多くの作品を残しました。また、和歌にも造詣が深く、多くの和歌を詠みました。

4. 政治手腕

朽木稙綱は、優れた政治手腕を発揮し、朽木家を繁栄に導きました。稙綱は、家臣を信頼し、彼らの意見を尊重したことで知られています。また、稙綱は、百姓を大切にし、彼らの負担を軽減する政策を実施しました。

5. 死後

朽木稙綱は、寛文4年(1664年)に死去しました。稙綱の死後、朽木家は衰退の一途をたどり、元禄16年(1703年)には改易されてしまいました。しかし、稙綱の功績は今もなお語り継がれています。

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