朽木則綱 – 江戸時代前期から中期の旗本

朽木則綱 – 江戸時代前期から中期の旗本

旗本として家康に仕える

旗本として家康に仕える

-旗本として家康に仕える-

朽木則綱は、江戸時代前期から中期の旗本である。幼名は軍八郎。通称は源太左衛門。石高は1,000石。

則綱は、永禄3年(1560年)に朽木稙綱の三男として生まれた。母は安芸国の豪族・毛利元就の娘・妙玖。則綱は、幼い頃から武芸に秀で、早くから徳川家康に仕えた。家康からは、「朽木は楚材にして、呉材にあらず。皆、その材に従って使いべし」と評され、重用された。

則綱は、天正12年(1584年)の甲斐征伐、天正13年(1585年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐など、数々の戦いで功績を挙げた。特に、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に属して活躍し、戦後には摂津国茨木郡に1,000石を与えられた。

則綱は、慶長8年(1603年)に大坂城番となった。慶長19年(1614年)には、大坂冬の陣で豊臣軍と戦い、功績を挙げた。元和元年(1615年)の大坂夏の陣にも参加し、天王寺口の戦いで奮戦した。

則綱は、寛永5年(1628年)に69歳で死去した。法名は、道鷲院殿沃誉宗策。墓所は、東京都文京区の伝通院である。

則綱は、武勇に優れた武将として知られているが、同時に、文化人としても活躍した。則綱は、茶道や和歌に精通しており、多くの茶器や和歌を残している。また、則綱は、徳川家康の命で、京都の仏像や絵画を収集し、徳川家康に献上した。

則綱は、江戸時代前期の旗本として活躍し、武勇と文化の両面で功績を残した。

常陸から近江への転封と大番頭への就任

常陸から近江への転封と大番頭への就任

-常陸から近江への転封と大番頭への就任-

寛永12年(1635年)、則綱は常陸国牛久藩主から近江国仁正寺藩主に転封された。仁正寺藩は5万石の藩で、牛久藩よりも格上の藩であった。これは、則綱が徳川家光の信任を得ていたことを示すものである。

仁正寺藩に転封された後、則綱は大番頭に任じられた。大番頭は、江戸城の警備と将軍の護衛を任務とする役職で、幕府の重職の一つであった。則綱は、大番頭として徳川家光の側近として仕えた。

寛永19年(1642年)、則綱は江戸城の大火で功績を挙げたとして、徳川家光から褒賞を受けた。また、翌年には、従五位下刑部少輔に叙任された。寛永21年(1644年)、則綱は53歳で死去した。

石州流の茶人としての活躍と死去

石州流の茶人としての活躍と死去

石州流の茶人としての活躍と死去

朽木則綱は、石州流の茶人としても活躍しました。石州流とは、京都出身の茶人である小堀遠州が開いた茶道流派です。則綱は、遠州の弟子である片桐石州に師事し、茶道を学びました。

則綱は、茶道において優れた才能を発揮し、遠州の茶風を受け継ぐ名手として知られました。また、則綱は茶会を頻繁に開催し、多くの茶人を招いて茶道の交流を深めました。

寛永20年(1643年)、則綱は63歳で死去しました。則綱の死は、石州流の茶道にとって大きな損失であり、茶人たちはその死を深く悼みました。

則綱は、茶人としてはもちろん、旗本としても活躍し、江戸幕府に仕えていました。則綱は、旗本として、将軍や他の旗本たちと交流を深め、江戸幕府の政治に参与していました。

則綱は、茶人として、旗本として、江戸時代前期から中期の日本で活躍した人物です。則綱の活躍は、日本の文化や政治に大きな影響を与えました。

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