久邇朝融 – 大正・昭和前期の皇族と軍人

久邇朝融 – 大正・昭和前期の皇族と軍人

久邇朝融の人生と経歴

久邇朝融の人生と経歴

-久邇朝融の人生と経歴-

久邇朝融(くにのぶ あさひろ)は、大正・昭和前期の皇族であり、陸軍軍人である。久邇宮朝彦親王の第十七王子として東京に生まれる。幼名は稔彦(としひこ)。

1907年(明治40年)、陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵少尉に任官。1910年(明治43年)、陸軍大学校を卒業し、参謀本部員に任命された。

1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発すると、シベリアに派遣され、ロシア軍と交戦した。1918年(大正7年)、帰国し、陸軍歩兵中佐に昇進した。

1922年(大正11年)、久邇朝融は陸軍歩兵大佐に昇進し、近衛歩兵第3連隊長に任命された。1924年(大正13年)、陸軍少将に昇進し、陸軍省軍務局長に任命された。

1929年(昭和4年)、久邇朝融は陸軍中将に昇進し、第16師団長に任命された。1931年(昭和6年)、満州事変が勃発すると、第16師団を率いて満州に派遣され、中国軍と交戦した。

1933年(昭和8年)、久邇朝融は陸軍大将に昇進し、教育総監に任命された。1936年(昭和11年)、侍従長に任命され、昭和天皇の側近として仕えた。

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が勃発すると、久邇朝融は参謀総長に任命された。しかし、太平洋戦争の戦況が不利になると、1944年(昭和19年)7月に参謀総長を辞任した。

1945年(昭和20年)、終戦後、久邇朝融は皇籍を離脱し、臣籍降下した。1951年(昭和26年)、東京で死去した。

海軍軍人としての活躍

海軍軍人としての活躍

-海軍軍人としての活躍-

久邇朝融は海軍軍人として、軍縮条約の締結や日中戦争、太平洋戦争など、日本の近代史の重要な出来事に深く関わりました。

日露戦争後の1908年、久邇朝融は海軍少尉に任官されました。1911年には、イギリスの海軍大学校に留学しました。1914年に帰国後は、軍令部で勤務し、海軍の軍備拡張計画の立案などに携わりました。

1922年のワシントン海軍軍縮条約の締結に際しては、久邇朝融は日本海軍の代表団の一員として参加しました。この条約は列強間の海軍軍備を制限するもので、日本は保有する戦艦の数を制限されることになりました。久邇朝融もこの条約の交渉に参加し、日本海軍の主張を主張しました。

1928年、久邇朝融は海軍大佐に昇進し、1934年には海軍少将に昇進しました。1936年には海軍中将に昇進し、1938年には海軍大将に昇進しました。1939年には、海軍大臣に任命されました。

海軍大臣在任中は、日中戦争や太平洋戦争など、日本の近代史の重要な出来事に深く関わりました。日中戦争では、久邇朝融は海軍の作戦を指揮し、日中戦争の終結に貢献しました。太平洋戦争では、久邇朝融は海軍の最高司令官として、日本の海軍の作戦を指揮しました。しかし、1945年8月に日本は敗戦し、久邇朝融も海軍大臣を辞任しました。

久邇朝融は、海軍軍人として、日本の近代史の重要な出来事に深く関わりました。彼の功績は、日本の近代史を学ぶ上で欠かせないものです。

皇族から民間人へ

皇族から民間人へ

皇族から民間人へ

久邇朝融は、1887年(明治20年)に東京で生まれました。父は久邇宮朝彦親王、母は滋子妃でした。朝融は幼い頃から聡明で、学習院中等科を首席で卒業しました。その後、陸軍士官学校に進学し、1909年(明治42年)に卒業しました。

朝融は陸軍歩兵科に配属され、歩兵第1連隊に勤務しました。1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦には、歩兵第24連隊第2大隊長として出征しました。朝融は戦功を挙げて、勲章を授与されました。

1919年(大正8年)、朝融は歩兵第28連隊長に任命されました。1923年(大正12年)には、陸軍大佐に昇進し、歩兵第1旅団長に任命されました。1927年(昭和2年)には、陸軍少将に昇進し、歩兵第15旅団長に任命されました。

1931年(昭和6年)、満州事変が勃発しました。朝融は歩兵第15旅団長として、満州に派遣されました。朝融は旅団を率いて、激戦地である奉天を攻略しました。朝融の功績を称えて、陸軍中将に昇進し、勲一等旭日大綬章を授与されました。

1935年(昭和10年)、久邇宮朝融は皇籍離脱を申請しました。朝融は皇族の身分を離れ、民間人となりました。朝融はその後、実業家に転身し、財界で活躍しました。

1954年(昭和29年)、久邇朝融は東京で亡くなりました。享年67でした。朝融は皇族として、軍人として、そして民間人として、激動の昭和史を生き抜いた人物でした。

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