国康親王

国康親王

仁明天皇の皇子

仁明天皇の皇子

-大見出し 国康親王-

-小見出し 仁明天皇の皇子-

国康親王は、平安時代初期の皇族。仁明天皇の第2皇子。母は仁寿殿女御藤原順子。桓武天皇の孫。第52代嵯峨天皇の弟、第53代淳和天皇の兄。幼名は饒速日命を賜った。

国康親王は、承和4年(837年)に生まれ、承和11年(844年)に元服。その後、左兵衛督、右近衛中将、右衛門督などを歴任した。仁寿3年(853年)には、皇太弟に冊立されたが、翌仁寿4年(854年)に急逝した。享年18。

国康親王の死後、弟の常康親王が皇太弟に冊立されたが、常康親王も貞観元年(859年)に急逝した。そのため、仁明天皇の跡を継いだのは、国康親王の異母弟である惟仁親王(文徳天皇)となった。

国康親王の死は、仁明天皇に大きな衝撃を与えた。仁明天皇は、国康親王を深く愛しており、その死を悼んで、国康親王の菩提を弔うために、仁和寺を建立した。また、国康親王の死後、仁明天皇は、皇嗣の確保に努め、惟仁親王(文徳天皇)をはじめ、複数の皇子に皇位を譲ることを考えた。しかし、仁明天皇は、承和15年(848年)に崩御し、皇位継承問題は、白紙に戻された。

国康親王の死は、仁明天皇の死と相まって、平安時代初期の政治に大きな影響を与えた。国康親王が生きていれば、仁明天皇の死後、皇位を継いでいた可能性が高い。そうなれば、平安時代初期の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

藤原賀登子の子

藤原賀登子の子

国康親王 – 藤原賀登子の子

国康親王は、平城天皇の第一皇子。母は藤原賀登子。賀登子は藤原仲麻呂の娘で、平城天皇の皇后である。

国康親王は延暦4年(785年)に生まれ、弘仁11年(820年)に25歳で薨去した。

賀登子は、国康親王のほかに、平城天皇との間に淳和天皇、嵯峨天皇、仁明天皇の3人の天皇を儲けた。また、桓武天皇との間に、安殿親王、仲野親王、恒貞親王、葛原親王、万多親王、伊予親王、有智子内親王、正子内親王の8人の子女をもうけた。

国康親王は、賀登子の子供の中で、最も早くに亡くなった。

国康親王の死因は、賀登子の関与が疑われている。

賀登子は、国康親王の死後、平城天皇に迫って、嵯峨天皇を皇太子に立てさせた。

嵯峨天皇は、国康親王の異母弟であり、賀登子の実子である。

国康親王の死は、賀登子の野望を達成するための手段であった可能性がある。

また、国康親王は、桓武天皇の皇子である良岑安世と親密な関係にあったと伝えられている。

良岑安世は、『古今和歌集』の編者としても知られる詩人である。

良岑安世は、国康親王の死を悼んで、多くの歌を残した。

国康親王の死は、当時の人々に大きな衝撃を与えた。

国康親王は、若くして亡くなり、その死には謎が多い。

国康親王の死は、藤原賀登子の野望と、良岑安世との親密な関係が原因であった可能性がある。

病弱のため出家

病弱のため出家

-国康親王-

国康親王は、光孝天皇の第八皇子である。母は藤原良房の娘・藤原明子。

文徳天皇が即位する際、兄の惟喬親王とともに皇太子候補であったが、惟喬親王が早世したため、皇太子に立てられた。

しかし、病弱のため、延喜8年(908年)に出家し、円融天皇の代まで出家したまま皇太子であった。

延喜23年(923年)、円融天皇の異母兄・寛明親王が亡くなり、寛明親王の二人の子・成明親王と源兼明が相次いで皇太子に立てられたが、いずれも早世したため、国康親王が再度皇太子に立てられた。

しかし、翌年に国康親王も早世したため、皇太子は不在となり、以後は皇位継承をめぐる争いが激化した。

-病弱のため出家-

国康親王は、幼い頃から病弱であった。

延喜8年(908年)、19歳の時に出家し、円融天皇の代まで出家したまま皇太子であった。

出家後は、仁和寺や醍醐寺で修行し、仏教を深く信仰した。

国康親王が出家した理由は、病弱であったことが大きな要因であると考えられている。

当時は、病弱は呪詛や祟りによるものと考えられており、出家することでそれを回避しようとした可能性がある。

また、国康親王は、父である光孝天皇の死後、母である藤原明子と対立しており、出家することで宮中から離れ、母の影響力を排除しようとした可能性もある。

国康親王の出家は、皇位継承問題に大きな影響を与えた。

国康親王が出家したことにより、円融天皇には皇太子がおらず、皇位継承をめぐる争いが激化した。

最終的には、円融天皇の異母兄である源兼明が皇位を継承したが、兼明も早世したため、再び皇位継承問題が発生した。

国康親王の病弱は、平安時代の皇位継承に大きな影響を与えたのである。

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