「岡本柳之助」とその生涯

「岡本柳之助」とその生涯

幕府の砲兵練習所での教育と維新後の陸軍入隊

幕府の砲兵練習所での教育と維新後の陸軍入隊

幕府の砲兵練習所での教育と維新後の陸軍入隊

岡本柳之助は、1847年(弘化4年)に江戸で生まれました。幕末の激動の時代を生き、戊辰戦争では新政府軍として戦い、明治維新後は陸軍に入隊し、日清戦争・日露戦争にも従軍しました。

岡本は、1864年(元治元年)に幕府の砲兵練習所に入学しました。砲兵練習所は、幕府が1857年(安政4年)に江戸湾の台場に設置した教育機関で、西洋式の砲術を学ぶことができました。岡本は、砲兵練習所での3年間の教育で、砲術や数学、物理学などの基礎知識を身につけました。

1868年(慶応4年)、戊辰戦争が勃発すると、岡本は新政府軍に加わり、砲兵として戦いました。戊辰戦争後は、陸軍に入隊し、砲兵将校として各地を転任しました。1894年(明治27年)の日清戦争では、旅順攻防戦に参加し、活躍しました。1904年(明治37年)の日露戦争では、遼陽会戦や奉天会戦に参加し、功績をあげました。

岡本は、1910年(明治43年)に陸軍中将に昇進し、1914年(大正3年)に退役しました。退役後は、軍人を養成する私立学校を設立し、後進の育成に努めました。1931年(昭和6年)に死去しました。

岡本柳之助は、幕末維新の動乱期を生き抜き、明治維新後は陸軍将校として活躍した人物です。砲兵術に精通し、日清戦争・日露戦争にも従軍しました。また、退役後は、軍人を養成する私立学校を設立し、後進の育成に努めました。

西南戦争での参謀として活躍と竹橋事件にまつわる疑い

西南戦争での参謀として活躍と竹橋事件にまつわる疑い

西南戦争での参謀として活躍

明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、岡本柳之助は参謀として政府軍に加わる。参謀の任に就いてからは、西郷隆盛率いる薩摩軍を相手に、数々の戦いに参加した。その中でも、熊本城の戦いでは、政府軍の勝利に大きく貢献し、名を上げた。西南戦争終結後、岡本柳之助は陸軍少将に昇進し、陸軍省で勤務した。

竹橋事件にまつわる疑い

西南戦争後の明治13年(1880年)、東京・竹橋の陸軍士官学校で、生徒による反乱事件が発生した。この事件は、「竹橋事件」と呼ばれ、反乱に加わった生徒たちは、政府を批判し、改革を求めた。竹橋事件は、政府にとって大きな衝撃となり、反乱に加わった生徒たちを厳しく取り締まった。

竹橋事件発生後、反乱に加わった生徒たちを処罰するかどうかを巡って、政府内で論争が起こった。そして、その論争の中で、岡本柳之助が反乱生徒に同情的だったとして、疑いの目が向けられた。岡本柳之助は、反乱生徒たちを処罰することに反対し、政府が反乱生徒たちを寛大に扱うべきだと主張した。また、岡本柳之助は、反乱生徒たちを弁護する演説を行い、世間の注目を集めた。

竹橋事件を巡る政府内の論争は、最終的には、反乱生徒たちを処罰することで決着した。そして、岡本柳之助は、反乱生徒に同情的だったとして、陸軍省から免職され、予備役に編入された。岡本柳之助は、その後、政界に転身し、衆議院議員などを務めた。

朝鮮での閔妃暗殺事件への関与と投獄、辛亥革命勃発時の上海で客死

朝鮮での閔妃暗殺事件への関与と投獄、辛亥革命勃発時の上海で客死

-朝鮮での閔妃暗殺事件への関与と投獄-

1895年(明治28年)、岡本柳之助は朝鮮に渡り、閔妃暗殺事件に関与したとして、韓国政府から反逆罪で逮捕された。閔妃暗殺事件とは、1895年10月に朝鮮王妃閔妃が閔妃暗殺事件とは、1895年10月に朝鮮王妃閔妃が韓国軍人と日本人浪人によって暗殺された事件である。岡本柳之助は、事件当時、朝鮮に渡っていて、閔妃暗殺を計画したとされる。しかし、実際のところは、岡本柳之助が事件に関与したという証拠はなく、濡れ衣である可能性が高い。岡本柳之助は、不当逮捕・投獄に抗議して、獄中で何度もハンガーストライキを行ったが、1898年(明治21年)に裁判にかけられ、反逆罪で死刑を宣告された。しかし、翌1899年(明治32年)に減刑され、終身刑となった。岡本柳之助は、長らく獄中に服役し、1929年(昭和4年)に釈放された。

-辛亥革命勃発時の上海で客死-

釈放後、岡本柳之助は、中国に渡り、上海で生活していた。1911年(明治44年)、辛亥革命が勃発すると、岡本柳之助は、革命を支援したが、1912年(明治45年)に上海で客死した。岡本柳之助の死因は、病死とされているが、殺害されたという説もある。岡本柳之助は、激動の時代に生きた人物で、その生涯は、謎に包まれている。

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