来原慶助 – 明治-昭和時代前期の教育者

来原慶助 – 明治-昭和時代前期の教育者

台湾国語学校教師から東亜書院の副院長兼教頭へ

台湾国語学校教師から東亜書院の副院長兼教頭へ

-台湾国語学校教師から東亜書院の副院長兼教頭へ-

来原慶助は、1864年に長崎県で生まれました。1884年に東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業後、台湾国語学校に教師として赴任します。台湾国語学校は、1895年に台湾総督府によって設立された学校で、台湾人の日本語教育を目的としていました。

来原は、台湾国語学校で日本語を教えていただけでなく、台湾人の生活や文化についても研究を進めました。1904年に台湾国語学校を退職後、東亜書院の副院長兼教頭として赴任します。東亜書院は、1900年に東京市京橋区南伝馬町に設立された私立学校で、清国や朝鮮からの留学生を対象としていました。

来原は、東亜書院で中国語や朝鮮語を教えていただけでなく、留学生の生活指導も行っていました。また、東亜書院の機関誌である「東亜時論」の編集長も務めていました。東亜時論は、東亜に関する政治、経済、文化などの情報を掲載した雑誌で、当時の知識人や政治家の間で広く読まれていました。

来原は、1926年に東亜書院を退職後、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)の校長に就任します。第一中学校は、東京府が設立した中学校で、当時最も難関な中学校の一つでした。来原は、第一中学校の校長として、生徒の教育に力を注ぎ、第一中学校を名門校へと育て上げました。

来原は、1933年に第一中学校を退職後、東京市教育局の局長に就任します。教育局長として、東京市の教育行政を統括し、東京市の教育の発展に貢献しました。来原は、1941年に教育局長を退職後、1945年に亡くなりました。

日露戦争での陸軍通訳と満洲日報社長への就任

日露戦争での陸軍通訳と満洲日報社長への就任

-日露戦争での陸軍通訳と満洲日報社長への就任-

来原慶助は、1875年(明治8年)に現在の熊本県熊本市で生まれました。慶応義塾大学部理財科を卒業後、1897年(明治30年)に陸軍士官学校に入学。1900年(明治33年)に卒業し、陸軍歩兵少尉に任官されました。

1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると、来原は陸軍通訳として戦地に派遣されました。通訳として活躍するとともに、ロシア軍の動向を日本軍に報告するなど、日本軍の勝利に貢献しました。

1906年(明治39年)に日露戦争が終結すると、来原は満洲に派遣され、満洲日報の社長に就任しました。満洲日報は、満洲における日本の権益を擁護することを目的として設立された新聞です。来原は、満洲日報の社長として、日本の満洲政策を宣伝する記事を掲載するとともに、満洲の現状を日本に伝える役割を果たしました。

1912年(明治45年)に満洲日報を退社した来原は、その後、南満洲鉄道株式会社の理事や、満洲電信電話株式会社の社長など、満洲における日本の経済活動に貢献しました。1925年(大正14年)には、貴族院議員に勅選され、1942年(昭和17年)に死去するまで、日本の政界や財界で活躍しました。

生誕地・出身学校・著作

生誕地・出身学校・著作

-生誕地-

来原慶助は、1865年(慶応元年)に伊予国宇和郡吉田村(現在の愛媛県西予市吉田町)に生まれました。父は、吉田藩士の来原彦十郎、母は、五十嵐氏でした。

-出身学校-

来原慶助は、1881年(明治14年)に東京大学予備門に入学し、1885年(明治18年)に卒業しました。その後、東京帝国大学法科大学に進学し、1889年(明治22年)に卒業しました。

-著作-

来原慶助は、教育者として多くの著作を残しています。代表的な著作には、以下のものがあります。

* 『教育学講義』(1894年)
* 『修身教科書』(1895年)
* 『教育史講義』(1897年)
* 『教育制度論』(1900年)
* 『教育哲学講義』(1903年)

来原慶助の著作は、明治時代の教育界に大きな影響を与えました。特に、『教育学講義』は、日本初の教育学の教科書として広く使用されました。

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