[奥山榕斎] 江戸時代後期の儒者

[奥山榕斎] 江戸時代後期の儒者

奥山榕斎とは

奥山榕斎とは

-奥山榕斎とは-

奥山榕斎(おくやま ようさい)は、江戸時代後期の儒者。名は幸、字は久仲、号は榕斎・堅樹・香村・高観堂。通称は重兵衛。晩年は通称を改めて玄斎と称した。
榕斎は、上野国緑野郡島村(現在の群馬県安中市)に、佐波郡中之条町大戸(現在の群馬県吾妻郡中之条町)の地主、奥山平左衛門の四男として生まれた。

榕斎は、幼少の頃から学問を好み、儒書を読み漁った。14歳の時、江戸に出て、頤庵(いあん)塾に入門。颐庵塾で、朱子学を学び、頭角を現した。

榕斎は、颐庵塾を卒業後、江戸で塾を開き、朱子学を講じた。榕斎の塾は、たちまち評判となり、多くの門人が集まった。榕斎の門下からは、後に幕府の要職に就いた者も少なくなかった。

榕斎は、朱子学を講じるだけでなく、多くの著書も残した。その代表作は、『榕斎随筆』である。『榕斎随筆』は、榕斎が、日常で見聞きしたことを、随想風に書き留めたもので、江戸時代の庶民の生活や風俗を知ることができる貴重な史料となっている。

榕斎は、安政6年(1859年)、75歳で死去した。榕斎の墓は、東京都台東区谷中にある天王寺にある。

奥山榕斎の生涯

奥山榕斎の生涯

– 奥山榕斎の生涯

奥山榕斎は、江戸時代後期の儒者です。名は臨、字は潤卿、号は榕斎。通称は源五郎。寛政7年(1795年)11月24日、常陸国鹿島郡久能村(現在の茨城県鹿嶋市久能)に生まれました。

幼い頃から聡明で、10歳の頃に漢籍を読み始めました。13歳の時に江戸に出て、昌平坂学問所に入学しました。昌平坂学問所では、朱子学を学び、頭角を現しました。

文化10年(1813年)、昌平坂学問所を卒業し、諸藩の儒官を歴任しました。文化13年(1816年)に水戸藩の儒官となり、弘化3年(1846年)に彦根藩の儒官となりました。

弘化4年(1847年)に江戸に戻り、昌平坂学問所の教授となりました。安政元年(1854年)には、昌平坂学問所の頭取に昇進しました。

安政5年(1858年)、日米修好通商条約の締結に反対し、昌平坂学問所の頭取を辞任しました。その後は、私塾を開いて、朱子学を講義しました。

文久3年(1863年)に、昌平坂学問所の総裁に任命されました。慶応2年(1866年)に、昌平坂学問所の学頭に昇進しました。

慶応4年(1868年)に、明治政府の官僚となりました。明治2年(1869年)に、文部省の次官に任命されました。

明治5年(1872年)に、文部省を退官しました。その後は、私塾を開いて、朱子学を講義しました。

明治16年(1883年)11月24日、東京府東京市麹町区一番町(現在の東京都千代田区麹町)で死去しました。享年89。

奥山榕斎は、朱子学の大家として知られ、多くの弟子を育てました。その弟子の中には、明治政府の中枢で活躍した人物も多くいます。

奥山榕斎の業績

奥山榕斎の業績

– 奥山榕斎の業績

奥山榕斎(おくやま ようさい、1799年 – 1889年)は、江戸時代後期の儒者・教育者・郷土史家です。名は嘉右衛門、号は石園・春皐・石斉・水竹斎・竹石など。筑前国穂波郡(現・福岡県福智町)出身。

榕斎は、幼少より漢学を学び、16歳で京都に出て、高島秋帆に師事しました。その後、江戸に出て、昌平黌に入学。卒業後は、各地を遊歴し、1823年に帰郷。私塾「石園塾」を開き、多くの弟子を育てました。

榕斎は、儒教の精神に基づいた教育を施し、郷土の歴史や文化を研究しました。また、貧しい人々を救済する活動にも取り組みました。1871年には、筑前藩の学問所「修猷館」の初代館長に就任。1877年には、東京大学の前身である東京開成学校の教授に就任しました。

榕斎は、1889年、91歳で死去しました。その業績は、教育界や郷土史研究の分野で高く評価されています。

榕斎の主な著作には、以下のものがあります。

* 『福智郡史』
* 『筑前国続風土記』
* 『石園随筆』
* 『春皐詩集』
* 『水竹斎詩集』

これらの著作は、榕斎の博識と郷土愛を伝える貴重な資料となっています。

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