園城寺円満院 円助法親王

園城寺円満院 円助法親王

後嵯峨天皇の皇子として誕生

後嵯峨天皇の皇子として誕生

後嵯峨天皇の皇子として誕生

円助法親王は、鎌倉時代前期の皇族・天台宗の僧侶です。後嵯峨天皇の第二皇子として生まれ、母は一条局藤原長子でした。幼名は宗助と名付けられますが、出家後は円助と改名しました。
円助法親王は、12歳で出家して天台宗となり、園城寺に入りました。14歳で同寺の座主となり、その後に権僧正、権大僧都などの高位を歴任しました。また、1246年には園城寺の一院である円満院を創建して、その初代住職となりました。
円助法親王は、学問や和歌に秀でていました。特に和歌では、新古今和歌集や続後撰和歌集に多くの歌が収められています。また、天台宗の教義にも詳しく、多くの著作を遺しています。
円助法親王は、1290年に66歳で亡くなりました。円満院に葬られ、現在もその廟所が残されています。円助法親王は、鎌倉時代前期の天台宗を代表する僧侶の一人であり、その功績は高く評価されています。

宝治3年に出家し,翌年に親王となる

宝治3年に出家し,翌年に親王となる

-宝治3年に出家し,翌年に親王となる-

園城寺円満院の第10世住職であり,大僧正に任じられた円助法親王は, 後嵯峨天皇の第五皇子として誕生しました。
母は後嵯峨天皇の中宮である西園寺姞子で,後深草天皇, 亀山天皇の同腹の兄にあたります。

円助法親王は,宝治3年(1249年)に17歳のときに,園城寺円満院に入り出家しました。
翌年の宝治4年(1250年)には, 親王宣下を受け,円助法親王となりました。
その後, 大僧正に任じられ, 円満院の住職として,寺務を執りました。

円助法親王は,優れた学問と徳望で知られ,多くの弟子を育てました。
また,積極的な寺院経営を行い,円満院を京都五山の筆頭にまで発展させました。
また,円満院の総門である仁王門を建立するなど,寺観を整えることに努めました。

円助法親王は,永仁7年(1299年), 67歳のときに,円満院の住職を辞し,隠居しました。
その後も,各地を巡錫し,法を説き続け,嘉元3年(1305年)に円満院で示寂しました。

円助法親王は,園城寺円満院の発展に尽くしただけでなく,鎌倉仏教の興隆にも大きな役割を果たした人物です。
その徳望は広く世に知られ,後世まで人々から敬慕されました。

園城寺長吏,四天王寺別当などを歴任

園城寺長吏,四天王寺別当などを歴任

-園城寺長吏,四天王寺別当などを歴任-

園城寺円満院 円助法親王は、14世紀の鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての皇族・天台宗の僧侶。
光厳天皇の第四皇子。母は吉田定房の娘・和子。法号は円助。

1372年(貞治元年)、園城寺長吏に就任。
1377年(永和3年)に四天王寺別当に任じられてより以降、20年近くこの地位にあり、寺領の回復などに努めている。また、第二代将軍・足利義詮の病を祈願し、快方したことから、足利義詮より尊崇を受ける。

1400年(応永7年)、園城寺長吏に再任。
1405年(応永12年)には、延暦寺座主(天台宗の最高位)に就任した。

1410年(応永17年)、園城寺円満院で死去。享年57。

円助法親王は、天台宗の有力な僧侶として、園城寺や四天王寺の発展に貢献した。
また、足利将軍家との関係も深く、足利義詮や足利義満から尊崇を受けた。

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