-赤松円心(⇒赤松則村)

-赤松円心(⇒赤松則村)

赤松円心の生涯

赤松円心の生涯

-赤松円心の生涯-

赤松円心(生年不詳 – 1333年)は、鎌倉時代末期の武将。播磨国赤松氏第9代当主。赤松則村とも呼ばれる。父は赤松則祐。子に赤松則祐。

赤松円心の生涯については、多くの謎に包まれている。生年も不詳だが、1280年頃と推定されている。1316年に父・則祐が亡くなると、家督を継いで赤松氏の当主となる。

円心は、播磨国守護として、京都の六波羅探題と協力して、西国の動向を監視していた。1331年に、後醍醐天皇が倒幕を計画すると、円心は六波羅探題の命令に従って、天皇を捕らえようとした。しかし、天皇は円心の動きを察知して、比叡山に逃れた。

翌1332年、円心は、足利尊氏と反六波羅探題の兵を挙げる。足利尊氏は、京都を制圧して、六波羅探題を滅ぼした。円心は、尊氏の勝利に貢献したとして、播磨国守護に再任された。

1333年、円心は、尊氏が九州に下向した際に、尊氏に従って九州に下向した。しかし、九州で尊氏と対立して、尊氏に攻められ、播磨国に敗走した。円心は、播磨国で尊氏の軍勢と戦い、戦死した。

円心の死後、赤松氏は、円心の弟・則村が家督を継いだ。則村は、尊氏に仕えて、功績を挙げ、播磨国守護に任じられた。赤松氏は、その後も播磨国を治め、戦国時代まで存続した。

赤松円心の功績

赤松円心の功績

赤松円心の功績

赤松円心は、播磨赤松氏の第17代当主で、室町幕府の管領も務めた戦国武将です。赤松氏は、南北朝時代の1336年に赤松円心が守護職を兄の赤松則祐に譲り、赤松円心は出家して円心と名乗って以降、赤松氏の本家とされる播磨赤松氏と赤松則祐の系統にあたる備前赤松氏に分かれ対立していました。

円心は、1391年に室町幕府3代将軍足利義満の命を受けて、備前赤松氏を攻め滅ぼしました。この功績により、円心は播磨赤松氏の家督を回復し、室町幕府の管領に任命されました。

円心は、管領として幕政を牛耳り、足利義満の死後は、4代将軍足利義持を補佐して、幕府の権威を維持しました。また、円心は、朝鮮や明との外交にも手腕を発揮し、東アジアにおける室町幕府の威信を高めました。

しかし、円心は、1428年に足利義持と対立して失脚し、播磨に帰国しました。その後、円心は、1431年に死去しました。

赤松円心の功績は、以下のようにまとめることができます。

・備前赤松氏を攻め滅ぼし、播磨赤松氏の本家を統一した。
・室町幕府の管領として足利義満や足利義持を補佐し、幕府の権威を維持した。
・朝鮮や明との外交に手腕を発揮し、東アジアにおける室町幕府の威信を高めた。

赤松円心は、室町幕府の全盛期を支えた名将として知られています。

赤松円心の評価

赤松円心の評価

赤松円心の評価

赤松円心は、室町時代の武将で、播磨国の守護大名でした。応仁の乱では東軍の総大将として活躍し、足利義政から偏諱を受けて赤松則村と名乗りました。赤松円心の評価は、軍事面と政治面で大きく分かれます。

軍事面では、赤松円心は勇猛果敢で知られた武将でした。応仁の乱では、東軍の総大将として西軍の細川勝元と激戦を繰り広げ、最終的には勝利を収めました。赤松円心の軍事的な才能は、同時代の武将から高く評価されており、足利義政からも「天下随一の武将」と賞賛されました。

政治面では、赤松円心は有能な政治家でした。播磨国を治めた期間中、赤松円心は民政に力を入れ、国を繁栄させました。また、赤松円心は文化の振興にも努め、播磨国に多くの寺院や神社を建立しました。赤松円心の政治的な才能は、同時代の公家や武将から高く評価されており、足利義政からも「天下随一の政治家」と賞賛されました。

しかし、赤松円心には、残忍で冷酷な一面もあったと言われています。応仁の乱では、西軍の武将を殺害したり、西軍の陣営を焼き討ちしたりするなど、非道な行為を働きました。また、赤松円心は、播磨国を治めた期間中、重税を課したり、反対者を弾圧したりするなど、圧政を敷いたと言われています。赤松円心の残忍で冷酷な一面は、同時代の公家や武将から批判されており、足利義政からも「天下随一の暴君」と非難されました。

このように、赤松円心の評価は、軍事面と政治面で大きく分かれています。軍事面では、赤松円心は勇猛果敢で知られた武将として高く評価されていますが、政治面では、残忍で冷酷な一面があったと言われています。

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