應雲(1334~1402) → 有職家として文化・芸能に影響を与えた人物

應雲(1334~1402) → 有職家として文化・芸能に影響を与えた人物

生い立ちと公家としての経歴

生い立ちと公家としての経歴

-生い立ちと公家としての経歴-

應雲は、1334年(建武元年)に公家である正親町三条公国の子として生まれた。幼名は公政。少納言を務めた後、1352年(正平7年)に参議に任じられ、公卿となった。その後、権中納言、権大納言を歴任し、1388年(康応元年)には内大臣に任じられた。1392年(明徳3年)には左大臣に昇進し、1399年(応永6年)には太政大臣に就任した。

應雲は、公家として高い地位を歴任したが、文化・芸能にも大きな影響を与えた人物であった。應雲は、有職家として、公家の礼法や作法に精通し、有職故実の研究にも熱心に取り組んだ。また、音楽や芸能にも通じており、自ら和歌や連歌を詠み、茶道にも精通していた。應雲の文化・芸能に対する造詣の深さは、公家や武家だけでなく、庶民の間にも知れ渡っており、多くの文化人や芸能人が應雲を師と仰いでいた。

應雲は、1402年(応永9年)に69歳で薨去した。応雲の死は、公家や文化・芸能界に大きな衝撃を与えた。応雲の死後、公家や文化人たちは、応雲の業績を称え、彼の功績を後世に伝えるために、応雲の生涯や功績を記録した書物を編纂した。

南朝の衰退と出家

南朝の衰退と出家

-南朝の衰退と出家-

應雲(1334~1402)は、南朝の後醍醐天皇の皇子、宗良親王の七男として京都で生まれた。幼名は宗良。当初は僧侶として出家し、「尊圓」と名乗っていた。しかし、足利尊氏が権力を握ると、還俗して「應雲」を名乗った。

應雲は、公卿(位階が三位以上)として活躍し、四辻大納言と称された。また、有職家(有職故実の研究者)としても知られ、様々な有職故実に関する書物を残した。

1392年、南朝の後亀山天皇が退位し、北朝の後小松天皇に譲位したことで、南北朝は統一された。これにより、應雲は朝廷での地位を失い、出家して「宗雲」と名乗った。

應雲は、その後も有職家として活躍し、様々な書物を著した。また、和歌や連歌にも優れ、多くの作品を残した。1402年に京都の東福寺で71歳で死去した。

應雲は、南朝の衰退と出家を経験した動乱の時代にあって、文化・芸能に大きな影響を与えた人物である。

京都嵯峨での隠遁生活

京都嵯峨での隠遁生活

-京都嵯峨での隠遁生活-

応雲は、1334年に京都で生まれました。17歳で出家して臨済宗の僧となり、23歳で南禅寺に入りました。南禅寺で修行を積んだ後、京都の五山の一つである天龍寺に住職となりました。天龍寺に住職の間に、応雲は、足利義満と親しくなり、その庇護を受けました。しかし、応雲は、室町幕府の政治に嫌気がさし、38歳の時に京都嵯峨に隠遁しました。

嵯峨で隠遁生活を送った応雲は、禅僧としてだけでなく、文化人としても活躍しました。応雲は、和歌や連歌に優れており、多くの作品を残しました。また、応雲は、書道にも堪能で、その作品は、多くの寺社に所蔵されています。

応雲は、1402年に69歳で亡くなりました。応雲の死後、その弟子たちは、応雲の遺志を継いで、嵯峨に「応雲寺」を建立しました。応雲寺は、現在でも、京都の観光スポットの一つとなっています。

応雲は、京都嵯峨での隠遁生活の中で、多くの文化作品を生み出しました。応雲の文化作品は、室町時代の文化に大きな影響を与えました。応雲は、室町時代の文化を代表する人物の一人です。

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