北白河院(1173-1238)

北白河院(1173-1238)

北白河院の生涯

北白河院の生涯

北白河院の生涯

北白河院(1173-1238)は、平清盛の息子である平重衡の5男で、母は藤原兼光の娘である。幼名は清仁で、後白河院の猶子となり、北白河院の称を授けられた。

1180年、わずか8歳で元服し、1185年に従三位となり、左近衛中将に任じられた。1189年、平氏政権が滅亡すると、北白河院は出家し、法名を真意と号した。

1192年、後白河院の命により、北白河院は還俗し、参議に任じられた。1198年、権中納言に昇進し、1202年には内大臣に任じられた。1206年、右大臣に昇進し、1211年に左大臣に任じられた。

北白河院は、後白河院の信任が厚く、朝廷で重要な役割を果たした。1221年、後白河院が崩御すると、北白河院は後堀河天皇の摂政となり、政務を総覧した。

1223年、北白河院は征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府の討伐に向かった。しかし、北条泰時の軍勢に敗北し、京都に撤退した。

1226年、北白河院は出家し、翌年、薨去した。享年66。

北白河院は、平家一門の出身でありながら、後白河院の信任を得て、朝廷で重要な役割を果たした。しかし、鎌倉幕府の討伐に失敗し、失意のうちに生涯を終えた。

北白河院の夫、後高倉院

北白河院の夫、後高倉院

-北白河院の夫、後高倉院-

北白河院(1173-1238)の夫は、後高倉院(1161-1181)でした。後高倉院は、第80代天皇・高倉天皇(1161-1180)の第二皇子であり、北白河院の最初の夫である以仁王(1151-1180)が亡くなった後に北白河院と結婚しました。

後高倉院は、1176年に高倉天皇が譲位した後に即位しました。しかし、在位期間は短く、わずか2年後に亡くなりました。そのため、北白河院は、後高倉院の死後に夫を亡くした未亡人となりました。

北白河院は、後高倉院の死後も夫を偲んでいました。そして、1203年に後高倉院の菩提寺である北野天満宮に、後高倉院の霊を祭る社殿を建立しました。この社殿は、後に「後高倉院廟」と呼ばれ、北白河院は後高倉院の廟を守護する役割を果たしました。

北白河院は、1238年に亡くなりましたが、後高倉院の廟を祀るという遺志は、北白河院の死後も引き継がれました。そして、北白河院の死後も、後高倉院の廟は北白河院の遺族によって守られ続け、現在に至っています。

北白河院の子ども、後堀河天皇

北白河院の子ども、後堀河天皇

– 北白河院(1173-1238)
北白河院は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての皇族・歌人である。後白河天皇の第3皇子であり、後鳥羽天皇の同母兄である。母は、藤原隆季の娘・殖子。

北白河院は、久安6年(1150年)に生まれる。安元3年(1177年)に16歳で右大臣となり、仁安3年(1168年)に22歳で内大臣となる。寿永3年(1184年)に25歳で関白となるが、寿永4年(1185年)に平清盛の追討を受け、翌元暦元年(1184年)に26歳で失脚する。

その後、北白河院は、土佐国に配流されるが、文治5年(1189年)に赦されて帰京する。建久3年(1192年)に30歳で再び内大臣となり、建久10年(1199年)に37歳で再び関白となる。正治元年(1199年)に38歳で辞職し、建永元年(1206年)に44歳で薨去する。

北白河院は、和歌に優れ、『新古今和歌集』に50首が入集している。『北白河院御集』には、その歌が収められている。

– 北白河院の子ども、後堀河天皇
北白河院の子どもには、後堀河天皇がいる。後堀河天皇は、承久3年(1221年)に11歳で即位し、嘉禎3年(1237年)に17歳で崩御する。在位17年。

後堀河天皇は、鎌倉幕府の第3代将軍、源実朝と姉・昇子(せつし/しょうし)の娘、雅子(まさこ)を皇后とし、2人の娘を儲ける。しかし、雅子は嘉禎元年(1235年)に25歳で崩御し、後堀河天皇は翌嘉禎2年(1236年)に16歳で出家する。

後堀河天皇は、在位中に承久の乱を鎮圧し、鎌倉幕府との関係を改善する。また、京都に六波羅探題を設置し、幕府の京都支配を強化する。

後堀河天皇は、学問を好んで和歌を詠み、『続千載和歌集』に13首が入集している。また、仏教を信仰し、禅宗の僧侶、道元を帰依した。

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