人名辞典 – 上柳牧斎

人名辞典 – 上柳牧斎

上柳牧斎とは

上柳牧斎とは

-上柳牧斎とは-

上柳牧斎(うえやなぎぼくさい)は、1879年(明治12年)生まれの新聞記者、政治評論家。

富山県出身で、早稲田大学中退後、1904年(明治37年)に東京朝日新聞(現在の朝日新聞)に入社しました。新聞記者として活躍し、1914年(大正3年)には論説主任に就任。1921年(大正10年)には編集局長に昇進しました。

牧斎は政界にも大きな影響力を持っており、特に護憲運動や立憲民政党の結成に尽力しました。1924年(大正13年)には衆議院議員に当選し、1929年(昭和4年)には民政党総務に就任。1932年(昭和7年)には内閣書記官長に任命されました。

しかし、1936年(昭和11年)の二・二六事件の際に、軍部に協力したとして民政党を離党させられ、政界を引退しました。

牧斎はジャーナリストとして、政治評論家としても大きな功績を残しました。著書には「日本政党史」「政治家の運命」などがあります。

牧斎は1945年(昭和20年)に66歳で亡くなりました。

上柳牧斎は、日本の新聞界と政界に大きな影響を与えた人物です。その功績は今でも高く評価されています。

上柳牧斎の生涯

上柳牧斎の生涯

上柳牧斎の生涯

上柳牧斎は、1866年(慶応2年)9月20日に、現在の岐阜県関市に生まれました。本名は、上柳秀五郎です。牧斎という号は、平安時代の歌人、藤原実方からとったものであります。

牧斎は、幼い頃から漢学と和歌を学び、1882年(明治15年)に上京して、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学しました。在学中は、坪内逍遥や尾崎紅葉らと交友し、文学を志しました。

1889年(明治22年)に東京専門学校を卒業した牧斎は、新聞記者や雑誌記者として働きました。また、1891年(明治24年)には、詩集「牧窓集」を出版し、詩人としてもデビューしました。

1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると、牧斎は従軍記者として中国に渡りました。戦後、牧斎は戦記を執筆し、その功績により、1895年(明治28年)に陸軍省の史料編纂課長に任命されました。

1897年(明治30年)に牧斎は、史料編纂課長を辞任して、東京に戻りました。その後、牧斎は、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師や、東京帝国大学の教授を務めながら、詩作と評論活動を続けました。

1925年(大正14年)に牧斎は、東京帝国大学を定年退職しました。その後、牧斎は、神奈川県鎌倉市に居を移し、詩作と評論活動を続けました。

1944年(昭和19年)12月3日に牧斎は、神奈川県鎌倉市で死去しました。享年78歳でした。牧斎は、詩人として、評論家として、そして教育者として、日本の近代文学に大きな功績を残しました。

上柳牧斎の功績

上柳牧斎の功績

-上柳牧斎の功績-

上柳牧斎は、江戸時代後期の国学者・歌人・政治家です。彼は、国学の研究、歌の創作、政治活動など、様々な分野で功績を残しました。

牧斎の国学研究は、古典の研究を中心に、日本の歴史や文化を解明することを目的としていました。彼は、古典の文献を収集し、注釈を加え、その成果を『古事記伝』『日本書紀伝』などの著書にまとめました。これらの著書は、国学の研究に大きな影響を与え、日本の歴史や文化の理解に貢献しました。

牧斎の歌は、万葉集の影響を強く受けたもので、自然を題材にしたものが多く見られます。彼の歌は、清新で率直な表現が特徴で、多くの人々に愛されました。また、牧斎は、歌論書『歌経標式』を著し、歌の創作について論じています。この歌論書は、後の歌人に大きな影響を与え、日本の和歌の発展に貢献しました。

牧斎の政治活動は、幕末の動乱期に活躍しました。彼は、尊皇攘夷運動に参加し、倒幕運動に尽力しました。また、戊辰戦争では、新政府軍に加わり、幕府軍と戦いました。明治維新後は、元老院議官や文部卿などを歴任し、日本の近代化に貢献しました。

上柳牧斎は、国学者・歌人・政治家として、日本の歴史や文化、近代化に大きな功績を残しました。彼は、その功績を称えられ、正三位勲一等子爵に叙せられました。

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