「季吟」

「季吟」

北村季吟とは

北村季吟とは

-北村季吟とは-

北村季吟(きたむら きぎん、1624年 – 1705年)は、日本の江戸時代前期の歌人・俳人である。季吟の名は、『杜国(とっこく)』に因んで庵里を「季吟庵」と名付けたことに由来する。

季吟は、1624年(寛永元年)、若狭国小浜(現在の福井県小浜市)に生まれた。父は若狭国小浜藩の茶人である北村玄信、母は法号が「静沢院」であるのみで詳細が不詳。季吟が幼い頃、父が亡くなったため、母の実家である京都に移り住んだ。

季吟は、幼い頃から和歌を学び、1643年(寛永20年)に連歌師の松尾芭蕉の門下に入った。芭蕉から連歌の指導を受け、また、俳諧にも親しむようになった。1659年(万治2年)には、芭蕉とともに奥州と北陸の旅に出た。この旅で、季吟は多くの俳諧を詠み、また、芭蕉の俳諧の才能を認め、芭蕉の俳諧を世に広めることに尽力した。

季吟は、1661年(寛文元年)に江戸に移り住み、俳諧師として活躍した。1662年(寛文2年)には、俳諧の連歌集『猿蓑』を出版し、この集は多くの俳諧師に影響を与えた。季吟は、また、俳諧の理論書『俳諧発句独吟集』を執筆し、この書は俳諧の理論の確立に貢献した。

季吟は、1672年(寛文12年)に京都に戻り、1705年(宝永2年)に京都で亡くなった。享年82。季吟は、江戸時代前期の俳諧を代表する人物であり、その功績は多くの俳諧師に影響を与えた。

北村季吟の生涯

北村季吟の生涯

-北村季吟の生涯-

北村季吟(1605~1678)は、江戸時代前期の歌人、俳諧師です。
俳諧の「神」と称され、俳諧の第一人者として活躍しました。

季吟は、1605年(慶長10年)に京都で生まれました。
幼少期に父を亡くし、母と兄に育てられました。
1625年(寛永2年)、21歳の時に江戸に遊学し、そこで松尾芭蕉や与謝蕪村らと出会い、俳諧の道に入りました。

1632年(寛永9年)、28歳の時に「四季折々」を出版し、俳諧師としてデビューしました。
その後、1649年(慶安2年)に「嬉遊笑覧」を出版し、俳諧の第一人者として確固たる地位を築きました。

季吟は、俳諧の理論と実践に大きな影響を与えた人物です。
俳諧の理論については、「誹諧通言」(1633年)、「俳諧古今和歌集」(1656年)などの著書を残しました。
また、俳諧の実践においては、各地を旅して俳諧の普及に努めました。
1651年(慶安4年)には、千日間の旅行に出かけ、その間に5000句の俳句を作りました。

季吟は、1678年(延宝6年)に74歳で亡くなりました。
死後、その功績を称えて、京都の八坂神社に「季吟塚」が建てられました。

季吟は、俳諧の第一人者として活躍した人物であり、俳諧の理論と実践に大きな影響を与えました。
俳諧の「神」と称され、現在でも多くの人々に親しまれています。

北村季吟の主な作品

北村季吟の主な作品

– 北村季吟の主な作品

北村季吟は、江戸時代前期の俳人、歌人、紀行作家、俳論家です。俳諧史上、最大の功績は『万句合』です。また、蕉風俳諧が完成するまでの地盤を固めた功績も大きいです。季吟の代表的な作品として、以下のものがあります。

1. -『万句合』- 正式名称は『俳諧万句合』、別称は『百人一句合』や『万句合』など。寛永19年(1642年)に完成と推測された作品です。俳諧史上、最大の功績とされ、季吟の門下生から優れた俳号を付与された俳諧を100句以上集めて、まとめています。それぞれに季吟自身が評を付けており、俳諧の指針となる作品として、現在でも広く読まれています。

2. -『藻塩草』- 正式名称は『藻塩草 後撰』。季吟の俳論書です。寛文4年(1664年)刊行と推測されています。全15巻で、俳諧の歴史や論などが記されています。季吟の俳諧観を知ることができる重要な作品です。

3. -『古今百人一首評釈』- 季吟が古今集の中から選んだ100首の歌に、評釈を付けた作品です。寛文2年(1662年)刊行と推測されています。和歌の入門書として、広く読まれた作品です。

4. -『北国紀行』- 季吟の紀行文です。寛永20年(1643年)に、季吟が北陸地方を旅した際の紀行文です。旅の途中で詠んだ俳句も収められています。

5. -『続日本書紀』- こちらは季吟の作品ではありませんが、季吟が校訂を担当した歴史書です。正保2年(1645年)に完成しました。続日本紀は、日本の歴史書であり、平安時代前期の仁明天皇の時代までを扱っています。季吟は、続日本紀の本文を校訂し、注釈を付けました。

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