菊舎太兵衛 – 江戸時代中期から後期の版元・俳人の生涯

菊舎太兵衛 – 江戸時代中期から後期の版元・俳人の生涯

菊舎太兵衛の生い立ちと創業

菊舎太兵衛の生い立ちと創業

菊舎太兵衛の生い立ちと創業

菊舎太兵衛は江戸時代中期から後期の版元・俳人である。
菊舎太兵衛は安永9年(1780年)に江戸の日本橋横町に生まれた。幼名は弥蔵、後に利平と改めた。
太兵衛は、祖父の菊舎太兵衛(初代)と、父の菊舎利平(二代)が営んでいた版元「菊舎」を継いだ。

菊舎は、享保年間(1716~1736年)に初代太兵衛が創業した。
初代太兵衛は、京都から江戸に出て、日本橋横町に書店を開いた。
後に版元業を始め、俳諧の書や浮世絵版画を出版した。

二代目利平は、初代太兵衛の死後に菊舎を継いだ。
利平は、俳諧の書や浮世絵版画だけでなく、黄表紙や洒落本も出版した。
黄表紙や洒落本は、当時の江戸庶民に人気があり、菊舎は版元として成功を収めた。

三代目太兵衛は、二代目利平の死後に菊舎を継いだ。
三代目太兵衛は、俳諧の書や浮世絵版画、黄表紙、洒落本の出版を続けた。
また、三代目太兵衛は俳人としても活躍し、蕉門の俳諧を学んだ。

三代目太兵衛は、文化11年(1814年)に菊舎を廃業した。
廃業の理由は、幕府の出版統制が厳しくなったためである。
幕府は、黄表紙や洒落本を風俗を乱すとして禁止した。
そのため、菊舎は版元として経営が困難になったのである。

三代目太兵衛は、菊舎を廃業した後も、俳人として活動を続けた。
三代目太兵衛は、天保11年(1840年)に亡くなった。

俳諧世説と花供養の刊行

俳諧世説と花供養の刊行

– 俳諧世説と花供養の刊行

菊舎太兵衛は、俳諧世説と花供養を刊行したことで知られています。俳諧世説は、俳諧の歴史や理論、著名な俳人の伝記などをまとめた書物で、花供養は、俳句を供養する法要を記録した書物です。

菊舎太兵衛が俳諧世説を刊行したのは、1754年のことです。俳諧世説は、全20巻からなる大著で、俳諧の歴史や理論、著名な俳人の伝記などを網羅しています。俳諧世説は、当時の俳諧界に大きな影響を与え、俳諧史研究の基礎資料として今日でも高く評価されています。

菊舎太兵衛が花供養を刊行したのは、1757年のことです。花供養は、俳句を供養する法要を記録したもので、俳諧世説よりも早く刊行されました。花供養は、俳諧の法要の様子や、供養された俳句などを記録しており、当時の俳諧界の様子を知る上で貴重な資料となっています。

菊舎太兵衛は、俳諧世説と花供養を刊行することで、俳諧界の発展に大きく貢献しました。特に、俳諧世説は、俳諧の歴史や理論、著名な俳人の伝記などを網羅した大著であり、俳諧史研究の基礎資料として今日でも高く評価されています。

二条家俳諧の諸行事への尽力

二条家俳諧の諸行事への尽力

-# 二条家俳諧の諸行事への尽力

菊舎太兵衛は、二条家俳諧の諸行事にも積極的に関わり、その発展に貢献しました。

毎年12月に開催されていた二条家俳諧の歳旦会では、太兵衛は多くの俳句を詠み、その才能を披露しました。また、歳旦会には、太兵衛が版元を務めた俳諧集も多く出展され、その普及に努めました。

二条家俳諧のもう一つの重要な行事である二条家連句大会にも、太兵衛は積極的に参加しました。連句大会は、何人かの俳人が順番に俳句を詠み、その句を繋げて一つの長大な連句を作り上げるというもので、俳諧の代表的な形式の一つです。

連句大会では、太兵衛は優れた連句を詠み、その才能を高く評価されていました。また、太兵衛は連句大会の運営にも携わり、その発展に貢献しました。

さらに、太兵衛は二条家俳諧の古俳諧の研究にも力を入れました。古俳諧は、江戸時代初期に流行した俳諧の形式で、太兵衛は古俳諧の句集を収集し、その研究に努めました。

太兵衛の古俳諧の研究は、当時にあっては先駆的なものであり、その成果は多くの俳諧師から高く評価されました。

このように、太兵衛は二条家俳諧の諸行事にも積極的に関わり、その発展に貢献しました。太兵衛の尽力は、二条家俳諧を江戸時代中期から後期にかけて隆盛に導く原動力の一つとなりました。

タイトルとURLをコピーしました