鬼城(村上鬼城)について

鬼城(村上鬼城)について

村上鬼城とは

村上鬼城とは

-村上鬼城とは-

村上鬼城(むらかみきじょう)とは、明治から昭和にかけて活躍した俳人・歌人・小説家である。本名は村上伝四郎(でんしろう)。山形県西置賜郡白鷹町(現・西置賜郡白鷹町)に生まれる。

幼少期より俳句に親しみ、1877年(明治10年)に高浜虚子や正岡子規らとともに「ホトトギス」を創刊する。その後、正岡子規亡き後、「ホトトギス」を主宰し、写生を重視した俳風を確立する。

また、「鬼城俳論」「万葉集私解」などの著書もあり、歌人・小説家としても活躍した。

村上鬼城は、写生を重視した俳風で知られる。鬼城は、「俳句は自然をありのままに写生したものであるべきだ」と考えており、自然をありのままに観察し、その情景をありのままに詠むことを目指した。

鬼城の俳句は、その写生の正確さと、その情景に対する繊細な感受性によって特徴づけられる。鬼城の俳句は、読者に自然の美しさや、季節の移ろい、人生の哀歓などをありありと感じさせる。

鬼城の俳句は、多くの俳人に影響を与え、近代俳句の発展に大きく貢献した。また、鬼城の歌や小説も、その独自の文体と、その鋭い洞察力によって高く評価されている。

村上鬼城の代表作

村上鬼城の代表作

村上鬼城の代表作

村上鬼城は、明治から昭和にかけて活躍した俳人であり、写生俳句の第一人者として知られています。彼の代表作には、以下のものがあります。

* 「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」
* 「菜の花や月は東に日は西に」
* 「山寺のほととぎす聞くや声すなり」
* 「若葉して莓二つ三つ落ちにけり」
* 「行く春や鳥啼き魚の目は泪」
* 「初しぐれ猿も小猿も傘をさす」
* 「冬籠り猫の額なる天井かな」
* 「梅一輪一輪ほどの暖かさ」
* 「春光や猫の恋も日に増して」
* 「啄木鳥や山の奥なるひびきかな」

これらの作品は、鬼城の写生俳句の特色である、ありのままの自然や生活を写し取った清澄な句風がよく表れています。鬼城の句は、読者に自然の美しさや生命の躍動感を伝えるとともに、人生の機微やはかなさをも感じさせます。

鬼城の俳句は、その写生的な作風と、庶民の生活や自然を詠んだ親しみやすさから、多くの人々に愛されています。彼の作品は、現代でも多くの俳人に影響を与え続けています。

村上鬼城の功績

村上鬼城の功績

-村上鬼城の功績-

村上鬼城は、日本の詩人、歌人、小説家である。本名は村上四郎。鬼城という号は、松尾芭蕉の「鬼の城」に由来している。

鬼城は、1865年(元治2年)に新潟県長岡市に生まれた。1885年(明治18年)に来京し、翌年、日本新聞社に入社した。1890年(明治23年)、小説『小説東京』を刊行して文壇デビューした。1895年(明治28年)に日本新聞社を退社し、日本文学の古典研究に没頭した。1897年(明治30年)、処女歌集『冬籠』を刊行。1907年(明治40年)に第二歌集『乳魚』を刊行し、歌壇の評価を高めた。1911年(明治44年)に第三歌集『艸いきれ』を刊行し、歌壇の最高峰に達した。

鬼城は、日本の近代詩歌に大きな影響を与えた。鬼城の詩歌は、自然の美しさを詠んだものが多く、写生性に富んでいる。また、鬼城は、伝統的な和歌の形式にとらわれず、自由な発想で歌を詠んだ。鬼城の詩歌は、日本の近代詩歌の新しい方向性を示したものであり、その功績は大きい。

鬼城は、1926年(大正15年)に東京で死去した。享年62歳。鬼城の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。

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