近江俊郎→ 日本の大正・昭和時代の歌手

近江俊郎→ 日本の大正・昭和時代の歌手

近江俊郎の生い立ちとデビュー

近江俊郎の生い立ちとデビュー

近江俊郎の生い立ちとデビュー

近江俊郎は、1895年(明治28年)6月22日に、東京都神田区に生まれました。本名は熊谷俊郎です。父親は日本画家の熊谷守一、母親は彫金の熊谷雪子です。

俊郎は、幼い頃から音楽に興味を持ち、7歳の時に日本音楽学校に入学しました。その後、1912年(大正元年)に東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学し、声楽を専攻しました。

翌1913年(大正2年)に、俊郎はテノール歌手としてデビューしました。その後、数々のオペラやコンサートに出演し、次第に人気を博していきました。

1918年(大正7年)には、松竹キネマに入社し、映画俳優としても活動を開始しました。また、同年には、ソプラノ歌手の野村光世と結婚しました。

1923年(大正12年)に発生した関東大震災で、俊郎の自宅は全焼してしまいました。しかし、俊郎はくじけずに音楽活動を続け、翌1924年(大正13年)には、日本最初のレコード会社である日本蓄音器商会(現・日本コロムビア)に入社しました。

俊郎は、コロムビアで数多くのレコードをリリースし、日本のポピュラー音楽の発展に貢献しました。代表曲には、「カチューシャの唄」「高原列車は行く」「酒は涙か溜息か」などがあります。

俊郎は、1958年(昭和33年)に63歳で亡くなりました。しかし、彼の残した音楽は今でも多くの人々に愛されています。

近江俊郎のヒット曲とスターへの階段

近江俊郎のヒット曲とスターへの階段

-近江俊郎のヒット曲とスターへの階段-

近江俊郎は、1903年(明治36年)1月1日に東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれた。1921年(大正10年)に日本ビクターに入社し、1923年(大正12年)に「さすらいの唄」でデビューした。1925年(大正14年)に発売された「東京節」が大ヒットし、国民的なスターとなった。1930年(昭和5年)には「酒は涙か溜息か」がヒットし、社会現象となる。この曲は、現在でもカラオケの人気曲として歌い継がれている。

近江俊郎は、映画にも出演した。1925年(大正14年)に公開された「人生の起伏」が当たり、映画スターとしても人気を得た。1930年(昭和5年)には主演映画「酒は涙か溜息か」が公開され、大ヒットした。

近江俊郎は、1936年(昭和11年)に日本ビクターを退社し、独立して音楽事務所を設立した。1940年(昭和15年)には、ジャズ・バンド「近江俊郎とニュー・ミュージック」を結成して、日本各地で演奏活動を行った。

近江俊郎は、1971年(昭和46年)に68歳で亡くなった。近江俊郎は、大正・昭和時代の日本を代表する歌手として、現在でもその歌声は人々に愛されている。

-代表曲-

* 東京節(1925年)
* 酒は涙か溜息か(1930年)
* 思い出の赤い手拭い(1931年)
* 侍ニッポン(1932年)
* 母を恋はずや(1933年)
* 故郷の灯(1934年)
* 旅姿三人男(1935年)

近江俊郎の引退とその後の人生

近江俊郎の引退とその後の人生

【近江俊郎の引退とその後の人生】

近江俊郎は、昭和37年(1962年)、舞台「湯の町エレジー・女の旅路」を最後に引退した。引退の理由は、持病の糖尿病が悪化したことと、長男の俊明が音楽の道に進むことに決めたためであった。引退後は、糖尿病の治療に専念しながら、長男の音楽活動をサポートした。

昭和40年(1965年)、近江俊郎は日本流行歌協会の会長に就任した。同協会は、日本の流行歌の発展に寄与した歌手を顕彰することを目的とした団体であり、近江俊郎は初代会長を務めた。

昭和44年(1969年)、近江俊郎は紫綬褒章を受章した。紫綬褒章は、学術や芸術、スポーツなどにおいて顕著な功績を挙げた個人に贈られる賞であり、近江俊郎は音楽界への功績が認められて受章した。

昭和50年(1975年)、近江俊郎は勲四等瑞宝章を受章した。勲四等瑞宝章は、国家や社会に功績のあった個人に贈られる賞であり、近江俊郎は音楽界への功績が認められて受章した。

平成3年(1991年)、近江俊郎は80歳で逝去した。近江俊郎の死は、日本の音楽界に大きな衝撃を与え、多くのファンが悲しみに暮れた。近江俊郎は、日本の流行歌史にその名を刻む偉大な歌手であった。

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