大西巨口:大正・昭和時代の児童文学者

大西巨口:大正・昭和時代の児童文学者

生い立ちと新聞社勤務

生い立ちと新聞社勤務

-生い立ちと新聞社勤務-

大西巨口は、1899年(明治32年)12月10日、現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町で、父・大西辰次郎、母・チエの間に生まれた。本名は、大西金四郎(かなしろう)。生後4ヶ月の時に、母が亡くなったため、祖父母に育てられた。

1914年(大正3年)には、和歌山県立紀伊中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)に入学。在学中は、文芸部に入部し、同人誌「紀伊文芸」を創刊。小説や詩を執筆した。

1918年(大正7年)に、和歌山県立紀伊中学校を卒業。その後、大阪毎日新聞社に入社。主に、社会部記者として活躍した。

1922年(大正11年)には、朝日新聞社に移籍。文化部記者として、主に文芸を担当した。

1925年(大正14年)には、朝日新聞社を退社。児童文学に専念するため、東京に移り住んだ。

巡回口演と「兎の耳」創刊

巡回口演と「兎の耳」創刊

-巡回口演と「兎の耳」創刊-

大西巨口は、巡回口演を積極的に行い、全国の児童に文学の楽しさを伝えた。1912年(大正元年)に東京を皮切りに、大阪、名古屋、京都、福岡など全国各地を巡り、約200回の口演を行った。その中には、児童文学の講演だけでなく、民話や童謡の語り聞かせ、紙芝居の上演なども含まれていた。

大西巨口の巡回口演は、児童文学の普及に大きな役割を果たした。それまでの児童文学は、主に家庭や学校で読まれることが多かったが、大西巨口の巡回口演によって、一般の人々にも児童文学が親しまれるようになった。また、大西巨口は、巡回口演を通して、児童の読書意欲を高め、児童文学作家の育成にも貢献した。

1913年(大正2年)、大西巨口は、児童文学雑誌「兎の耳」を創刊した。「兎の耳」は、児童文学の発表の場として、多くの作家が作品を寄稿した。また、「兎の耳」には、児童文学の評論や研究論文も掲載され、児童文学の理論的発展にも貢献した。

「兎の耳」は、日本の児童文学雑誌としては、初めて長期にわたって発行された雑誌である。1941年(昭和16年)まで、28年間にわたって発行され、児童文学の発展に大きな役割を果たした。その後、「兎の耳」は休刊したが、1952年(昭和27年)に復刊し、現在も発行されている。

名古屋童話協会会長として

名古屋童話協会会長として

名古屋童話協会会長として

大西巨口は、大正・昭和時代の児童文学者として、名古屋童話協会会長として、多くの功績を残しました。

名古屋童話協会は、大正11年(1922年)に、児童文学の発展と児童の健全な育成を目的として設立されました。大西巨口は、その設立当時から協会に参加し、事務局長などを歴任しました。そして、昭和16年(1941年)に会長に就任しました。

大西巨口は、会長として、名古屋童話協会の活動を積極的に推進しました。童話教室や講演会などの開催、童話の雑誌の発行、児童文学賞の創設など、さまざまな事業を行いました。また、児童文学者の育成にも尽力し、多くの作家を輩出しました。

大西巨口の功績は、児童文学の発展と児童の健全な育成に多大な貢献をしたことで、高く評価されています。

主な功績

* 名古屋童話協会の設立に尽力し、事務局長などを歴任。
* 昭和16年(1941年)に会長に就任。
* 童話教室や講演会などの開催、童話の雑誌の発行、児童文学賞の創設など、多くの事業を実施。
* 児童文学者の育成にも尽力し、多くの作家を輩出。
* 児童文学の発展と児童の健全な育成に多大な貢献をしたことで、高く評価されている。

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