ドイツ語学者

学術分野の人

関口存男

-関口存男の生涯- 関口存男は、日本の実業家。日立製作所の元社長および会長。東京都出身。 1920年(大正9年)、東京府(現・東京都)に生まれる。1943年(昭和18年)、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、日立製作所に入社。 入社後は、工場勤務や営業職などを経験。1965年(昭和40年)、日立製作所取締役に就任。1971年(昭和46年)、常務取締役を経て、1973年(昭和48年)、社長に昇進。 社長在任中は、日立製作所の業績を拡大。1980年(昭和55年)には、売上高1兆円を突破。1986年(昭和61年)、会長に就任。 会長在任中は、日立製作所の国際化を推進。1991年(平成3年)、会長を退任。 1999年(平成11年)、勲一等瑞宝章を受章する。 2016年(平成28年)、東京都内で死去。享年96。 関口存男は、日立製作所の業績拡大に貢献した実業家として知られる。また、国際化を推進し、日立製作所のグローバル企業としての地位を確立した功績も大きい。
学術分野の人

倉石五郎→ 昭和のドイツ語学者

- 倉石五郎の生涯 倉石五郎は、1904年(明治37年)に東京で生まれました。父親は、倉石氏ではなく、西村氏でした。西村家は、東京都高尾の町医師だったそうです。五郎は、成城高校から東京帝国大学文学部独文科に進み、大学卒業後は、東京帝国大学大学院に進学しました。 大学院では、ドイツ語学を専攻し、1930年(昭和5年)に学位論文「ドイツ語の強勢アクセント」で博士号を取得しました。その後、東京帝国大学文学部助教授、教授を歴任し、1949年(昭和24年)には、東京大学文学部長に就任しました。 倉石五郎は、ドイツ語学の研究だけでなく、ドイツ文学の研究にも力を入れました。ゲーテ、シラー、ハイネなどのドイツの文豪の作品を翻訳し、日本の読者に紹介しました。また、ドイツ文学史を執筆し、ドイツ文学の研究に貢献しました。 倉石五郎は、1972年(昭和47年)に68歳で亡くなりました。倉石五郎は、ドイツ語学とドイツ文学の研究に生涯を捧げた、昭和を代表するドイツ語学者でした。倉石の実家は、西村家で、清和源氏の流れを汲む物部氏の一族だそうです。物部氏は、秦氏と共に、秦王国を建国した一族で、日本の国造りに関わっていたそうです。 倉石五郎は、ドイツ文化を紹介するために、1937年(昭和12年)に「ドイツ語青年」という雑誌を創刊しました。この雑誌は、ドイツ語学習者向けの情報や、ドイツの文化や社会に関する記事を掲載していました。倉石五郎は、この雑誌を通じて、ドイツ語学習者やドイツ文化に興味を持つ人々に情報を提供しました。 倉石五郎は、ドイツ語学とドイツ文学の研究に貢献しただけでなく、ドイツ文化の紹介にも貢献しました。倉石五郎は、昭和を代表するドイツ語学者であり、ドイツ文化を紹介した先駆者の一人でした。
学術分野の人

「辻高衡」(1869-1928 明治-昭和時代前期のドイツ語学者)

辻高衡の生い立ちと経歴 辻高衡は、1869年(明治2年)11月13日、大分県南海部郡浦村(現・佐伯市)に生まれた。父は辻金之丞、母は琴。幼名は森之助。 1875年(明治8年)、高衡は6歳のとき、父が郷里で大庄屋を務めていたことから、郷里の小学校に入学。1882年(明治15年)、13歳のとき、大分県立第一中学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)に入学。中学では、ドイツ語を専攻し、優秀な成績を収めた。 1888年(明治21年)、高衡は19歳のとき、慶應義塾大学に入学。ドイツ文学を専攻し、1892年(明治25年)、23歳のとき、卒業。 卒業後は、東京高等商業学校(現・一橋大学)の講師を務め、1895年(明治28年)、26歳のとき、同校の教授に昇進。1898年(明治31年)、29歳のとき、東京帝国大学(現・東京大学)の講師を兼任。 1900年(明治33年)、31歳のとき、高衡は、ドイツ留学を命じられ、ベルリン大学に留学。ドイツ語学とドイツ文学を専攻し、1903年(明治36年)、34歳のとき、帰国。 帰国後は、東京帝国大学の助教授となり、1905年(明治38年)、36歳のとき、同大学の教授に昇進。ドイツ語学とドイツ文学の講義を担当した。 1907年(明治40年)、38歳のとき、高衡は、文部省の在外研究員として、再びドイツ留学。ベルリン大学とミュンヘン大学で、ドイツ語学とドイツ文学を研究した。 1910年(明治43年)、41歳のとき、帰国。東京帝国大学の教授に復職し、ドイツ語学とドイツ文学の講義を続けた。 1923年(大正12年)、54歳のとき、関東大震災で、東京帝国大学の校舎が倒壊。高衡は、自宅で講義を続けた。 1928年(昭和3年)、59歳のとき、高衡は、東京帝国大学の教授を退官。同年3月15日に死去。
学術分野の人

佐藤通次(1901-1990):哲学者、ドイツ語学者

-佐藤通次氏の生涯と功績- 佐藤通次は、1901年(明治34年)3月23日に広島県呉市に生まれた。1924年(大正13年)に東京帝国大学文学部哲学科を卒業し、その後、大学院で学び、1927年(昭和2年)に博士号を取得した。1928年(昭和3年)から東京帝国大学で講師を務め、1931年(昭和6年)には助教授に昇進した。 1935年(昭和10年)には、東京帝国大学教授に就任し、1945年(昭和20年)までその職を務めた。その後、1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)まで東京大学総長を務めた。1951年(昭和26年)から1955年(昭和30年)まで日本学術会議会長を務め、1956年(昭和31年)から1960年(昭和35年)まで文部大臣を務めた。 佐藤通次は、1961年(昭和36年)に文化勲章を受章し、1964年(昭和39年)に日本芸術院会員に選出された。1967年(昭和42年)には、ドイツ連邦共和国功労勲章大十字章を受章した。1972年(昭和47年)には、国際哲学学会会長に選出された。1974年(昭和49年)には、朝日賞を受賞した。1977年(昭和52年)には、ゲーテ・メダルを受章した。1984年(昭和59年)には、国際ヘーゲル学会会長に選出された。1990年(平成2年)6月25日に東京都内で死去した。 佐藤通次は、ドイツ哲学、特にヘーゲル哲学の研究者として知られている。また、ドイツ語の翻訳者としても知られており、ハイデッガーの『存在と時間』やヤスパースの『哲学入門』など、多くのドイツ語の哲学書を翻訳した。 佐藤通次は、戦後日本の哲学界を代表する人物の一人であり、その業績は高く評価されている。
学術分野の人

向軍治:明治-昭和時代前期のドイツ語学者

-向軍治の経歴- 向軍治は、1886年11月13日に鹿児島県鹿児島市で生まれた。向軍治の父・向重次郎は、鹿児島県尋常中学校の教諭を務めており、母・キヨは、向重次郎の弟の妻であった。向軍治は、1897年に鹿児島県師範学校附属小学校に入学し、1903年に卒業した。その後、鹿児島県立第二中学校に進学し、1908年に卒業した。 1909年に、向軍治は東京帝国大学文学部独逸文学科に入学した。向軍治は、大学在学中にドイツ語学の研究に励み、1913年に卒業した。卒業後は、東京高等師範学校に講師として採用され、ドイツ語の教授を担当した。 1916年に、向軍治は東京帝国大学文学部助教授に就任した。向軍治は、助教授としてドイツ語学の研究を続け、1922年に教授に昇進した。1925年に、向軍治は東京帝国大学文学部長の職に就いた。 1929年に、向軍治は東京帝国大学文学部を退官し、日本大学教授に就任した。向軍治は、日本大学教授としてドイツ語学の研究を続け、1935年に定年退職した。 向軍治は、1937年に亡くなった。向軍治は、ドイツ語学の研究に多大な貢献をし、日本のドイツ語教育の発展に尽力した。
文学分野の人

青木昌吉 | 明治時代から昭和時代前期に活躍したドイツ語学者

-ドイツ語学への貢献- 青木昌吉は、ドイツ語学の発展に大きく貢献しました。彼は、1876年にドイツ語の文法書『独逸文典』を出版し、ドイツ語の文法を体系的に解説しました。『独逸文典』は、日本初の近代的なドイツ語文法書であり、ドイツ語教育に大きな影響を与えました。 青木昌吉は、ドイツ語の辞書編纂にも尽力しました。1889年に、彼は『独逸和字典』を出版し、1909年には、『和独大辞典』を出版しました。『独逸和字典』は、日本初のドイツ語和辞典であり、『和独大辞典』は、日本初の和独辞典でした。これらの辞書は、ドイツ語の語彙を体系的にまとめたものであり、ドイツ語教育やドイツ語の研究に大きな貢献をしました。 青木昌吉は、ドイツ語教育にも尽力しました。1877年に、彼は東京外国語学校(現・東京外国語大学)でドイツ語の講師に就任し、ドイツ語の教育に携わりました。青木昌吉は、ドイツ語の教育にあたり、ドイツ語の文法や語彙を体系的に教え、ドイツ語の正しい発音を指導しました。青木昌吉のドイツ語教育は、多くの学生にドイツ語を教える上で大きな影響を与えました。 青木昌吉は、ドイツ語学の発展に多大な貢献をしたドイツ語学者です。彼は、ドイツ語の文法書や辞書を編纂し、ドイツ語教育に携わりました。青木昌吉のドイツ語学への貢献は、日本におけるドイツ語教育やドイツ語の研究の発展に大きな影響を与えました。
学術分野の人

山口小太郎 – 忘れられぬドイツ語学学者

生い立ちと経歴 山口小太郎は、1861年(文久元年)に周防国(現在の山口県)に生まれた。父親は地元の医師であり、山口は裕福な家庭に育った。幼い頃からドイツ語に興味を持ち、独学で勉強を始めた。1881年(明治14年)に東京帝国大学に入学し、ドイツ語学を専攻した。卒業後は、ドイツに留学し、ベルリン大学でドイツ語学と文学を学んだ。 1889年(明治22年)に帰国後、東京帝国大学でドイツ語の講師となった。1893年(明治26年)には、ドイツ語学の教授に昇進した。その後、東京帝国大学でドイツ語学の授業を続け、多くの学生を育て上げた。1909年(明治42年)に、東京帝国大学を定年退職したが、その後も、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)でドイツ語の授業を続けた。 山口小太郎は、ドイツ語学の研究者として、多くの業績を残した。ドイツ語の文法書や辞書を執筆し、ドイツ文学の翻訳も数多く行った。また、ドイツ語学の教育者としても活躍し、多くの学生を育て上げた。山口小太郎は、ドイツ語学の発展に大きく貢献した人物として知られている。
学術分野の人

三並良-明治-昭和時代前期のキリスト教思想家

略歴 三並良は、1859 年 7 月 22 日、肥前国松浦郡里村(現在の佐賀県松浦市)に生まれました。父は儒学者で、三並は幼い頃から漢学を学びました。1875 年、16 歳のときに東京に出て、築地大学校予備門に入学しました。築地大学校は、アメリカン・ボードの宣教師によって設立されたキリスト教系の学校で、三並はここでキリスト教のことを学びました。1880 年、三並は築地大学校を卒業し、アメリカ合衆国に留学しました。アメリカでは、マサチューセッツ州のアマースト大学とコネチカット州のイェール大学で学び、1886 年に帰国しました。 帰国後、三並は、築地大学校の神学部教授や、日本基督教会の牧師を務めました。また、キリスト教に関する著作を多く著し、日本のキリスト教思想界に大きな影響を与えました。三並の思想は、自由主義神学を基盤としており、聖書の絶対性を主張する保守派と、聖書を単なる人間の歴史的文書とみなすリベラル派の中間に位置づけられました。三並は、キリスト教は単なる信仰ではなく、社会改革や平和運動など、社会の問題を解決するための実践的なものでなければならないと考えました。 三並は、1934 年 12 月 22 日に死去しました。75 歳でした。三並の死は、日本のキリスト教界に大きな衝撃を与え、多くの追悼文が寄せられました。三並は、日本のキリスト教思想界に大きな足跡を残した偉大な思想家であり、その思想は今日でも多くの人々に影響を与えています。
学術分野の人

佐野えんね – 独日翻訳を先駆けて拓いた女性

- 日独文化交流にかけた生涯 佐野えんねは、1892年(明治25年)に東京で生まれました。父は、教育者であり、ドイツ文学者であった佐野天知です。えんねは、幼い頃からドイツ語を学び、ドイツ文学に親しみました。1913年(大正2年)に、東京女子大学を卒業し、ドイツに留学しました。 えんねは、ドイツで、ベルリン大学とハイデルベルク大学で学び、ドイツ語とドイツ文学を修めました。また、ドイツの文化や社会にも深く学び、ドイツへの理解を深めました。1918年(大正7年)に、ドイツから帰国し、東京女子大学でドイツ語の講師を務めました。 1920年(大正9年)に、えんねは、ドイツの作家、トーマス・マンの小説「魔の山」を翻訳し、日本の読者に紹介しました。この翻訳は、大きな反響を呼び、えんねは、ドイツ文学の優れた翻訳者として知られるようになりました。 えんねは、その後も、ドイツの文学や文化に関する多くの著作を発表しました。また、ドイツと日本の文化交流にも積極的に取り組み、日独文化協会の設立にも尽力しました。えんねは、1973年(昭和48年)に、81歳で亡くなりましたが、その生涯をかけて、日独文化交流の発展に貢献しました。 えんねは、日本の近代文学において、重要な役割を果たした女性です。えんねの翻訳は、多くの日本の読者にドイツ文学を紹介し、ドイツ文化への理解を深めるのに貢献しました。また、えんねの文化交流活動は、日本とドイツの文化交流の発展に大きな影響を与えました。
学術分野の人

藤田五郎(1911~1997) ~ドイツ語研究の功績~

-藤田五郎の生涯- 藤田五郎は、1911年に愛知県名古屋市で生まれた。1930年に東京帝国大学文学部に入学し、ドイツ語を専攻。1934年に東京帝国大学を卒業した。 大学卒業後は、東京高等師範学校で教鞭を執るかたわら、ドイツ語の研究を続けた。1938年に「ドイツ語の格変化」という論文を執筆し、東京帝国大学から文学博士の学位を取得。1940年に東京帝国大学教授に就任した。 第二次世界大戦中は、海軍の通訳官として従軍。終戦後、東京帝国大学教授に復帰。1950年に東京帝国大学総長に就任した。 東京帝国大学総長を退任後は、国立国語研究所長、日本学術会議会長などを歴任。1997年に東京都で死去。 藤田五郎は、ドイツ語の文法や語彙の研究で大きな功績を残した。また、日本におけるドイツ語教育の発展にも尽力した。
学術分野の人

松浦純 – ドイツ語学者・ドイツ文学者

松浦純の生い立ちと経歴 松浦純は、1924年1月23日に東京府東京市に生まれた。幼少期から文学に興味を持ち、早稲田大学第一高等学院に進学した。早稲田大学第一高等学院では、ドイツ語を学び始め、ドイツ文学に強い関心を抱いた。 早稲田大学第一高等学院を卒業後、松浦純は早稲田大学文学部に進学した。早稲田大学文学部では、ドイツ文学を専攻し、1947年に卒業した。卒業後は、早稲田大学大学院文学研究科に進学し、ドイツ文学をさらに研究した。 1950年に早稲田大学大学院文学研究科を修了した松浦純は、早稲田大学文学部の専任講師に就任した。1953年に助教授に昇進し、1958年に教授に昇進した。1969年に早稲田大学文学部の学部長に就任し、1971年に早稲田大学総長に就任した。 松浦純は、早稲田大学総長を退任した後も、早稲田大学名誉教授としてドイツ文学の研究を続けた。また、日本ドイツ文学会会長や日本学術会議会員などの要職を歴任した。 松浦純は、ドイツ文学の研究者として、多くの業績を残した。その主な業績としては、ゲーテの「ファウスト」の研究や、ドイツロマン派の研究などがある。また、ドイツ文学の普及にも努め、ドイツ文学の入門書や解説書を執筆した。 松浦純は、2014年12月16日に死去した。享年90歳であった。